小野小町が「絶世の美女」だったとされる根拠は何? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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楊貴妃、クレオパトラと並んで「世界三大美女」の1人とさ

れるのが、小野小町です。しかし他の2人と大きく違うのは、

その正体に謎が多いことです。肖像画は後ろ姿ばかりです

し、どういう一生を過ごしたかも断片的にしか伝わりません。

 

なので本当に美女だったのかという疑問の声も、数多く生

まれるのは当然でしょう。

 

小野小町が美女だったとされる最大の情報源とされるのが、

紀貫之の言葉でした。彼が『古今和歌集』の序文の中で小

野小町のことを、「小野小町は衣通姫の流れなり」と書いて

いるのです。

 

衣通姫も、やはり美女の代名詞でした。允恭天皇の后です

が、「美しさが衣(着物)を通して滲み出て来る」という意味で

衣通姫という名前になっています。その「衣通姫の流れ」とい

うことで、きっとかなりの美女なのだろうとなったのです。

 

ただし紀貫之と小野小町では、活躍した時期がかなりずれ

ています。紀貫之は小野小町を見てはいないでしょう。しか

もこれは和歌集の解説として記したもので、しかも衣通姫は、

歌人としても名手とされていました。

 

従って紀貫之が「小野小町は衣通姫の流れである」と書いた

のは、歌の作風のことではないかと考えるのが妥当ではない

かと思われるのです。

 

となると、小野小町が絶世の美女だったとされる根拠が、な

くなってしまいますね。

 

ただし、男性にモテたというのはどうも本当のようですし、美

女を否定する要素もないのが現実です。一方、その「美女

ぶり」ばかりが騒がれていて詳しい情報がなく謎ばかりが先

行するその発信のされ方には、作為的なものも多分に感じ

られます。当時の政治的意図も、働いていたのではないで

しょうか。