邪馬台国の「畿内説」も「九州説」も言い出しっぺは新井白石でした! | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

ブログの説明を入力します。

邪馬台国に関する研究と論争は、江戸時代からもう盛んでし

た。そしてその場所について最初に唱えられたのは、「畿内

説」です。言い出しっぺは、新井白石でした。

 

白石によると、魏からの使者たちは不弥から海に出て、瀬戸

内海を東に進み、最終的に大和にある邪馬台国の着いたと

判断していたようです。

 

尚、卑弥呼イコール神功皇后のことであるとも、記しています。

これが、「邪馬台国畿内説」の始まりとされています。

 

後に本居宣長がこれに異を唱えて「邪馬台国九州説」を唱え

たように言われてきましたが、それは間違いであることが、判

明しています。

 

新井白石が「畿内説」を唱えたのは『古史通或問』という著書

においてですが、実は晩年に彼は、『外国之事調書』という本

も書いていて、そこには「邪馬台国は筑紫国にあった」と記して

いるのです。つまり、畿内説を改め、九州説に転じていたので

した。

 

なので「畿内説」も「九州説」も、新井白石が言い出しっぺなの

でした。

 

ただこの転向が、「畿内説だと皇族が中国に従属していたよう

に思えるので、それは違う」という、いわば皇室に気を配ったよ

うな理由で、論理的な根拠に乏しいという見方をされていたの

です。

 

その後本居宣長が、中国の書物を研究して方位を割り出し、「九

州説」を唱えたとされます。

 

そこで結論付けられなかったのは、大和説が様々な形で再燃さ

れたからです。ただし、実際は九州から畿内に移動したという、

「東遷説」が有力視され始め、私もそう見て良いと思います。