タイトルにある「千利休キリシタン説」に関しては作家の加
治将一氏らが唱えていて、私も同意するのでここに記事に
します。
そして昨日触れた堺の南宗寺に関して加治さんは、「イエズ
ス会の教会と化していったのではないか」と雑誌で語ってお
ります。確かに南宗寺にはキリシタン灯篭が現在でも残って
いて、南蛮寺のような雰囲気は多々あるようです。元々は臨
済宗の禅寺だった同寺ではあるのですが。
そしてこの南宗寺には、田中与四郎、つまり若き日の千利休
の姿もあり、この寺から「宗易」という名をもらっています。
後の千利休が茶道の達人であったことに疑いの余地は、ない
でしょう。ただ彼の狭い茶室は密談に持って来いの造りで、多
くの戦国大名が通っています。特にキリシタン大名の高倉右近
が、熱心だったそうです。
そして高山右近は、利休の茶室がカプセル教会であり、密談の
空間であり、さらにはキリスト教における懺悔室の役割を果たし
ていたことを、語っているのです。
千利休はさらに、イエズス会と通じていて、ポルトガルから武器
を取り寄せる仲介もしていたようです。要するに、ポルトガルと
通じた武器商人でも、あったのです。
もし千利休がキリシタンで、茶の湯や武器仲介とセットで布教活
動をしていたとしたら、豊臣秀吉に処刑されたとしても不思議は
ありません。
千利休は切腹させられたことになっていますが、実際には処刑で
あり暗殺だったという見方も、数多いです。彼がキリシタンであるこ
とを伏せるためにキリスト教では御法度の自殺である切腹を秀吉
が装ったということも、充分考えられます。