戦国時代、堺が実質独立国家の如く自由都市だった理由 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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実は堺が商業都市として栄えたのは、戦国時代よりはるかに

前からです。畿内と瀬戸内海を結ぶ拠点として地理的条件が

良いことから、古代より権力者に目を付けられ、重要都市では

ありました。

 

それが飛躍的に繁栄するようになったのは、室町時代初めに

大内氏が進出してからです。大内氏は、堺の港を遣明船の母

港にし、国際的な商業都市に発展させました。

 

堺の蔵には、金銀の他にも明や琉球などの貿易品、全国から

の年貢米や木材が納められていたそうで、いわば金蔵ともいえ

ました。

 

それだけに堺の商人たちは強気で、大名たちに支配されること

を嫌い、町の運営を「会合衆」と呼ばれる36人の合議で進めて

いました。それに対し大名たちも、一気に武力制圧が出来る状

態ではありません。というのは堺の会合衆たちも商人なので、

様々な大名たちと公平に取り引きをし、メリットを均等に与える

ことで、多くの大名との結びつきを強めました。

 

そうなると、堺での利権を独占しようとして武力的手段に出たら、

他の取り引き先である大名たちを皆敵に回して戦うことになりま

す。それは出来ないことでした。

 

さらに応仁の乱以降になると、堺の町は深い濠で囲まれた環濠

都市として整備され、門を閉めれば外敵の侵入を防げるどころか

飛び火も防ぐことができました。

 

こうして防御を万全にした上、戦国末期には大名たちとの公平な

付き合いに見切りをつけ、畿内の覇者を用心棒として利用する駆

け引きも行なっていました。対岸の淡路・阿波を拠点とする三好氏

に軍資金を提供することで、町の平和と安全を買い取り自由都市

へと発展させたのでした。

 

ただそんな堺の栄華も、1596(慶長元)年に起きた畿内の大地震

で壊滅的被害を受けてからかげりを見せ、黄金時代が終息に向か

ったということです。自然災害は、本当に恐いものです。