10世紀後半以降、つまり平安時代中期以降は、摂政・関白の
座に就くことが、朝廷での権力を握る道でした。藤原北家など
はそうして天皇以上に実権を握りました。
ただ藤原家や清原家など名門の家柄は外だけでなく身内同士
でも親戚がいっぱいいたため、権力闘争が凄まじかったようで
す。
その権力闘争のカギを握っていたのが、娘の才能だったそうで
す。天皇の外戚、つまり母方の祖父になることが摂政・関白にな
る条件だったそうで、そうなるためには娘が天皇の寵愛を受ける
必要があったのです。
今の時代で考えれば理不尽な話ですが、当時はそうだったので
す。ただし寵愛を受けるというのは、色気を武器にして妾になるこ
とを指しているのではありません。まあそういう側面もなくはないで
すが、秘書的な役割をてきぱきとこなすことが大事。いわば実務
を助けたのです。
なので「才女」であることがとても大事。それがなければ、どんなに
美人でも寵愛は受けなかったのです。
従って、娘に対しては家庭教師を受けさせるなどして、息子よりもは
るかに凄まじい英才教育をしたということです。それによって、紫式
部や清少納言などの才女が数多く誕生したのでした。