「八王子千人同心」が後の「新撰組」を生むまでの歴史と土壌。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1590(天正18)年、徳川家康は江戸に入府する際、かつ

ての武田氏の家臣だった者たち250人を八王子に移し、

農地を与えて甲州口の警備に当たらせました。

 

それに付近の農民を加え、翌年には500人。10年後となる

1600(慶長5)年には、1000人にまで増員されました。こ

れが八王子の歴史を語るのに切り離せない「千人同心」の

始まりです。

 

ただ千人同心たちの家は単に八王子だけに収まらず、日野

一帯の農村にも広がっていました。そしてこの人たちは、農

民でありながら武士でもありました。従って農業と剣術、学問

を全てこなす、誇り高き人たちなのでした。

 

彼らの気風は、今の多摩地区全体に広がります。こうして農民

の武士化というか、農業・剣術・学問の全てをこなすのが当た

り前の土壌が多摩地区全体に広がったのです。

 

この地区には豪農が多かったのですが、その豪農たちの屋敷

内に剣術の道場が置かれるようになりました。そして江戸から

師範を招き、盛んに稽古が開かれます。主流となるのは、江戸

に本部を置く「天然理心流」という流派でした。

 

調布・上石原の豪農宮川久二郎の三男で天然理心流の三代目

当主となった近藤周助に見込まれ、養子となり、四代目当主とな

ったのが、後に新撰組の組長となる近藤勇なのでした。