「関ヶ原の戦い」で大勝利した徳川家康が、すぐにでも滅亡
させられる豊臣家を取りあえず存続させ、じわじわと追い詰
める作戦を取った話を、先日書きました。
家康は豊臣家を経済的に困窮させるために、すでに他界し
ていた秀吉の仏像を再建させました。
表向きは「秀吉殿を手厚く敬うため」ということでしたが、命
令された秀吉の息子・豊臣秀頼も、家康の魂胆は、わかっ
ておりました。
ここで秀頼は、ささやかな抵抗を示しています。釣鐘に、次
の8文字を入れたのです。
「国家安康 君臣豊楽」
どういうことかというと、家康の「家」と「康」を分断させること
で、「家康の首と胴を切り離すと国家は安らかになる」という
意図。もう1つは、「臣」と「豊」を入れることで、「豊臣が君と
なることで栄える」という意図です。
これに家康が腹を立てて「大坂の陣」で豊臣家を滅ぼしたな
どという説もありますが、それはないでしょう。このくらいの反
抗は想定内だろうし、西国の豊臣派の大名たちを取り込むこ
とに成功すれば攻め込むことは、すでに計画していたことで
すから。
ところでこの秀吉の大仏は、どうなったか?「大坂の陣」で勝
利した秀吉は、これを高瀬川から大坂へ、そして江戸まで運
びました。
江戸でどうしたかというと、潰して銅を取り、貨幣にしたので
す。それが有名な、「寛永通宝」でした。つまり「寛永通宝」は、
秀吉の大仏を原料として出発しているのでした。