赤穂浪士討ち入りの現場となった吉良上野介邸は、当時移転
してまだ、1年3ヶ月でした。
しかし討ち入り翌年である1703(元禄16)年2月、吉良家の
所領没収と共に幕府は、この屋敷も没収したのです。
その後松平日向守に預けられ、利用希望者を探しますが、誰
からも見向きもされません。世間的に悪役の屋敷。しかも多く
の人が斬り殺された土地ということで、住もうとする人がいなか
ったというのが、真相です。
仕方なく幕府は、ただ同然の値で民間に払い下げましたが、そ
の払い下げられた者さえ、長らく空き家にする始末だったそうで
す。イメージが悪いということでした。
やがて持ち主は、屋敷を解体して古材として売ろうとしたところ、
その材木にも買い手が現れなかったというのです。
それどころか江戸中の古材木屋が、吉良邸の古材が混じってい
るのではないかということで材木を買い控えたため、古材木の
相場が暴落した上で、家具屋や建具屋までが商品が売れなくな
るという、とんでもない現象が起きたというのです。
こうして見ると、吉良上野介の嫌われ方は、当時の社会現象で
もあります。日本、いや、世界の歴史を見ても、凶悪犯罪者で
もないのにここまで嫌われた人というのは、いないと思われます。
ギネスブックに載るだけの凄さは、ありますね。
まあ、赤穂浪士たちの格好良さもあったでしょうが、吉良上野介
の伝えられる嫌味でいびり好きな性格(この真偽も意見が分か
れますが)が嫌われたからでしょう。
それでいて、後世においても嫌味でいびり好きな上司が後を断た
ないのは、どうしたことでしょう。