江戸時代浅間山の噴火で消滅して「東洋のポンペイ」と呼ばれる悲劇の町。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1783(天明3)年、4月あたりから、浅間山の活動が活

発化し、小規模な噴火が繰り返されます。そして7月の6

日から8日までの3日間に渡りついに大噴火が起こり、

未曾有の災害をもたらせたのでした。


その中でも、火口から13キロメートル北の位置にあった

鎌原(かんばら)村は、火砕流にまるごと飲み込まれて、

壊滅してしまうのです。


このことから、イタリアのヴェスヴィオ火山噴火で消滅した

ポンペイになぞらえて鎌原村は、「東洋のポンペイ」とも呼

ばれるようになりました。


恐いのは、4月からの小規模噴火の際、この鎌原村が何

の影響も受けていなかったことです。被害があったのはも

っぱら浅間山の南東に位置する軽井沢宿や坂本宿で、土

砂や火山灰に悩まされていました。


鎌原村は北なので方角が違う上、約13キロと距離もある

ため、油断してしまったようです。


7月8日、最後に流れ出た火砕流から多くの人が逃げ遅れ、

村人570人のうち477人が、命を落としたのでした。


助かった人々の多くは、小高い場所にある観音堂に避難し

ました。火砕流はその中の石段50段のうち、35段まで迫っ

たそうです。


この埋没した石段の下部には、2人の女性の遺体が発見

されています。若い女性が年配の女性をおぶった姿だった

ということです。


2人の顔立ちが似ていることから、娘が母親か年の離れた

姉をおんぶして石段を昇ろうとしたけれど、火砕流に追いつ

かれてしまったものと思われます。泣けてきます。


この鎌原村は、現在復興し、群馬県吾妻郡嬬恋村となって

います。