昨日、元寇の征圧による恩賞がないことによる武士の不満が
鎌倉幕府弱体化の遠因になったことを、書きました。
そこにつけ込んで後醍醐天皇を中心としたグループが鎌倉幕
府を倒したわけですが、今度はその後醍醐天皇らも、同じ理由
で滅びの道を歩むのでした。
後醍醐天皇は、武士たちの活躍と功労で政権を奪ったのに、再
び公家政権に戻そうとしたので、武士たちの活躍が報われるこ
とがなかったのです。
そんな武士たちの言い分を代表して、足利尊氏が立ち上がるの
です。一般にはすぐに反乱を起こしたように思われていますが、
実際は後醍醐天皇と最初は話し合いの立場を取ろうともしていた
のです。
しかし新田義貞らの軍が強力だったため、そんな余裕がなくなっ
て、完全に戦となっていったのです。
そういうはっきりしない立場から反逆を始めているため、鎌倉幕府
ほどではないにしても室町幕府の成立年も、実は意見がしばらく
分かれていました。
尊氏が後醍醐天皇率いる建武政権打倒を表明した、1325(建武
2)年。新政治の方向性と法律を示した「建武式目」を制定した13
36(建武3)年。そして足利尊氏が征夷大将軍に任命された1338
(暦応元)年。この3つが長らく論議の対象となっていたのです。
このうち、打倒を表明した年というのは、除外でしょう。ただし残る2
つは、厳密には今でももめているようです。
一応表向きは、建武式目を制定した1336(建武3)年とされていま
す。私も、それで正しいと思います。しかしこれのネックは、「建武式
目」というネーミングです。後醍醐天皇の「建武の新政」に合わせた
そのネーミングから、”本当に幕府をやる気あったの?”と言われが
ちなのです。
その点、1338(暦応)年は年号も変わっていて、後醍醐天皇の権力
が完全に失われたことが、証明されているのです。これは当然、有力
な材料です。
しかし一応、後醍醐天皇らに気を遣いながらも幕府の形は成立した
というわけで、1336(建武3)年が最有力となっているのです。また。
「建武式目」は後醍醐天皇に関係なく、単に年号に合わせただけとい
う見方も、できます。