江戸・大奥の奥女中の名前をそのまま取った東京のある町名。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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徳川5代将軍・綱吉が断行した、悪名高き「生類憐れみの令」ですが、これは彼の母親である桂昌院お玉が助言したものと考えられています。


いかに桂昌院が大いなる権力を奮っていたかが、おわかりかと思います。


その桂昌院が創建したのが、護国寺でした。彼女がこの護国寺を祈願所としたため、マザコン将軍の綱吉も、たびたび参詣に訪れます。


そうした恩恵もあって、寺領は加増し、護国寺は大いに栄えました。それに伴い、周辺の町も繁栄することになります。


ところで桂昌院ですが、春日局の大のお気に入りで、愛人というかお小姓関係であったことでも、有名です。

お小姓というと男同士を思い浮かべがちですが、女同士でも当たり前に存在していました。


春日局といえば、大奥の創始者として有名です。従って桂昌院がその後を引き継いで大奥の発展に尽くしたのは、言うまでもありません。


そして、護国寺周辺一帯を、「音羽」と言っております。


この町名の「音羽」は、当時の大奥の奥女中の名前です。音羽という名の奥女中がこの土地を拝領し、そのまま地名となって現在に至っているのでした。


大奥の勢いと権力の凄まじさを、物語っていますね。

本日はアメーバがメンテナンスとかで、いつもの時間に更新できませんでした。8時半でもまだパソコンがつながりにくかったため、携帯で書かせてもらいました。それでは、良い1日を。