織田信長が将軍の座を拒否した理由。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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豊臣秀吉は、将軍の座を望んだけれど、朝廷及び足利義昭の

最後の意地による抵抗もあって、なれなかったのです。しかし

織田信長の場合は、あえてなろうとしなかった。というか、拒否

したようです。


勢いを増していた織田信長は、流浪していた足利義昭を将軍

に仕立てました。その時、部下に言われたそうです。

「足利義昭には、能力などありません。いっそあなたが、征夷大

将軍になるべきではないですか」


その部下の言葉を、信長は笑い飛ばしたそうです。

「将軍などという、古い称号は、興味ないわ。所詮、室町のお下

がりではないか。俺はもっと、この世を大きく変えて、人間がのび

のび過ごせるようにしてみせる」


戦の際には鬼になり、時に強権政治にも見えるようなこともする

が、庶民に対してはこの上なく人情味があり、人気のあった信長。

そして、楽市楽座を大がかりに断行し、特権階級から権利を奪っ

て自由主義経済を切り開いたりもしました。


そんな織田信長なので、上の部下に対する言葉も、実に説得力

が感じられます。究極の自由主義者だったのです。しかも、庶民

を大事にしたのだから、民主主義で平等主義でもあります。


しかも、将軍に仕立て上げた足利義昭を上から目線でバカにした

のは有名ですが、それにも狙いがあったようなのです。実は、天下

の将軍を見下すことで、自らの権力を誇示するのではなく、地位や

肩書きが何の役にも立たないことを、世に知らしめようとしたので

した。この辺は、平等主義の一環でもあります。


また、意外と部下の言うことに耳を傾けるタイプでして、それを見た

徳川家康は、”日本は話し合いを抜きにして存在しない国だ”と悟っ

たとされます。


今の時代に生まれてきたら、さぞ素晴らしかったでしょう。ただし、

それによって足利義昭が怒り、抵抗したところまでは、計算済みで

した。それは悉く、跳ね除けています。しかし、この振る舞いは、全

ての既存権力や権益をぶち壊すもので、朝廷にとっても脅威だった

と思われます。


しかも、政治的権力を奪われた朝廷にとって、将軍の任命権は、残

された数少ない権限の1つです。それを無視されたというのは、朝廷

に対する冒涜とも思えなくはありません。


ということで、「本能寺の変」は単なる明智光秀の個人的謀反ではな

く、裏で糸を操る人間がいて、見事使命を果たした光秀は後に天海

として長寿を全うした、という説は最近主流化しています。裏の主役

は朝廷で、それに秀吉も家康も秘かに追従した。という説が、この

エピソードで真実味を増すのです。