優れた鉄砲の製造はいとも簡単だった堺及び近江の鍛冶職人。 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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1368年、中国で元が滅亡、明が新たな王朝となった頃、日本では

ちょうど室町時代に移行せんとするところでした。従って、まもなく確立

する室町幕府と明の間では、盛んに貿易が行なわれたのです。


そんな中で書かれた中国(明)の物産解説書『東西洋考』には、「倭人

の刀はじつに鋭利で切れ味抜群。中国人も多くこれを重宝している」と

書かれています。


当時から日本刀は、砂鉄を繰り返し打って鍛えられていました。そのた

め、折れず、曲がらず、よく切れるの3拍子で、世界でもトップクラスの

機能を備えていたとされます。


その生産地として特に有名なのは、堺。そしてもう一つは、近江国の

国友村という所でした。


1543年、種子島に鉄砲が伝来したとされる時、すでに堺の職人たち

は鉄砲の製造に成功していた可能性が極めて高く、その辺については

昨2012年12月25日と今2013年5月13日のブログ、特に昨年12月

25日の記事では詳しく述べておりますので、良かったら参照してみて

ください。


実はこの刀鍛冶の技術を鉄砲に応用するのは、さほど難しいことではな

かったのです。日本刀は製造過程で軟らかい心金(心鉄)を中に入れて、

堅い皮金で外から包むという作業がありまして、これが鉄砲の銃身を造

る作業と似ているため、簡単に応用できたのです。


5月13日の記事にも書きましたが、1597年、イタリア人カルレッチが「日本

は世界一の武器製造技術を持ち、最大の輸出国でもある」と、断言しています。


江戸時代に入って、堺は産業を移行しましたが、国友村の鍛冶は江戸幕府

の御用鍛冶になりました。


後に、この技術を別な分野に応用した職人がいます。国友藤兵衛という人

ですが、この人は天体望遠鏡をつくり、太陽の黒点を研究しました。