大阪御堂筋の南に、淀屋橋というのがあります。また、常安町という所も
あります。つまり、地名になるほど、この淀屋常安という人は功労者、特に
大阪にとってはなくてはならない人だったのです。
昨日記事にいたしました伊達正宗の「支倉常長スペイン派遣」より2年後、
1615(元和元)年のことです。江戸幕府は開かれた故、まだ盤石とまで
は行かず、大坂では淀殿・秀頼母子の他、西国大名も戦力を温存して家
康との対立を続けておりました。
そんな地元大坂の空気に背を向け、まだ小さな材木商だった淀屋常安は
家康のもとに駆けつけ、本陣となっていた茶臼山に本陣小屋を建てました。
彼は家康の天下を予想し、商売の権利を得ようとすり寄ったのです。
家康は喜び、常安に山林地300石と朱印を与え、更には帯刀も許しました。
ただ、常安が申し出た商売は、もっと大がかり、そして家康にとっても驚き
のものでした。
それは、大坂の陣、つまり戦によって出るであろう大量の死体処理です。
もっといえば、将兵の死体が身に着けている、鎧兜、刀剣、馬具などの処理
でした。
結果、2万余人の死者が出たのですが、その身に着けた上記の遺品を、彼は
販売して、巨額の富を築いたのです。
これによって発言権も利権も手にした常安は、問屋が買い叩いて不安定だっ
た米価を安定させるため、米相場を建てる権利も得ます。こうして彼は、日本
中の米を操る独占企業の総帥となったのです。
常安は、手にした財貨を独り占めにすることなく、地元大坂のためにつぎ込み
ました。中之島を開発し、淀川の流れを整え、砂州に杭を打ち込んで埋め立て、
陸地を広げて町を築きました。
こうした実績があるから名前が地名になるほど崇められるのですが、この辺は、
商才の域を超え、天才的な眼力と直感のなせる技でしょう。