江戸時代後期において、関西の灘や伏見、伊丹で造られた日本酒は、
「下り酒」と呼ばれ、最も高級酒とされました。上方から廻船で送られて
くるためにそう呼ばれるのですが、船に揺られているうちに杉樽の香り
が溶け込んで味が更にまろやかになるのです。
そんな酒を楽しむため、お祭り好きの江戸人たちは、しばしば酒飲み大
会を開いていました。要するに、飲み比べです。その中で、1815年10
月21日に行われた大会の記録があります。これは、江戸中の大酒豪
100人を集めての大会ということなので、町の小さなイベントを勝ち抜
いてきた人たちの決勝大会と思われます。
千住宿で飛脚宿を営む中屋六右衛門の還暦を祝うという名目はありま
したが、要はお祭りがしたいだけだったと思われます。酒は、伊丹の名
酒、肴はからすみ、花塩、うずらの焼き鳥(卵ではありません)、鯉のあ
つものなどでした。
この大会で優勝したのは、松勘という男でして、一日かけて飲んだ量は
9升1合だそうです。準優勝が佐兵衛という男で、7升5合。女性の部も
ありまして、こちらの優勝はおすみという人。記録は2升5合。これに関
しては、今、もっと飲める女性が結構いそう。
ただし、体には良くないです。ただこの大会には文化人も多数ゲストと
して招かれていまして、大田南畝という作家が記した『水鳥記』という書
物にその時の様子が書かれています。
それによると、
「終日静かで乱れることもなく、礼儀を失うこともなかった」
とされています。酒乱やバカ騒ぎをする人がいなくて、品の良い酒豪で
固められていたということでしょう。
尚、余談ですが、東大合格で常にトップを争う灘高校は、昭和2年に、
酒造家たちが共同出資して設立した学校です。酒で得た利益を地元に
還元しようという目的。いわば、日本人が酒好きでなければ存在しなか
った学校です。