「文武両道」の言いだしっぺとその背景 | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう

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平氏は教養も備えていたが、源氏はまるでなかった。そのことは先月

にも書きましたが、源氏から政権を奪い取った北条氏も、当初は似た

り寄ったりかむしろ輪をかけたようなものだったようです。


だから、将軍ではなく執権という立場。将軍は全権委任の「国王」のよ

うな権限ですが、執権は政治を執り行う立場で、総理大臣のようなも

の。従って、朝廷に補佐を求めているための措置と考えて良いでしょう。


つまり自分たちの教養のなさを、自覚していたのです。


それを物語るエピソードがあります。1221年、後鳥羽上皇が北条打倒

を企て、承久の変を起こし、制圧されます。そこまでは有名な話。ところ

がその後、朝廷側が講和文書を出し、それが3代目執権となった北条

泰時にも当然届きました。


しかし北条泰時は、その文書が読めなかったというのです。全く字が読め

ないわけではないのですが、文書は漢文の文語体で書かれていました。

そして、泰時は、漢字があまり読めない上、かしこまった書き言葉が理解

できなかった。従って、漢文などちんぷんかんぷん、といったところなので

した。


そこで家来に、「誰か読める者はいないか?」と訊いたところ、「武蔵国の

藤田三郎という者なら学問があるので、読めると思います」という答え。

要するに、当時の関東武士には、漢文を読める者が1人しかいなかった

ということです。


まあ、現代日本にも、数年前、漢字の読めない総理大臣はいましたが。


それは置いといて、北条泰時はこの一件がよほど悔しかったのだと思わ

れます。その後、猛勉強しました。


そして1232年、鎌倉幕府初の法律・「御成敗式目」を完成させています。

しかもそれは、ちゃんと漢字もふんだんに使って発表しました。


その後「文武両道」という言葉が生まれ、今日まで続いております。その

言葉の生みの親、言いだしっぺがこの北条及び鎌倉幕府を倒した足利

尊氏というのも、皮肉なものです。


足利尊氏は遺書に、「文武両道は車輪の如し。一輪欠ければ人を渡さず」

と記しています。実際に、心がけていたようです。


また、「他人の悪を能く見る者は、己が悪これを見ず」とも残しています。

他人の粗さがしばかりしていると、自分の欠点や弱点が見えなくなると

いうことでしょう。


まあ、足利尊氏の場合、母親の上杉清子(せいし)が猛烈ママで、早くか

ら尊氏の天下取りの賭けていたため、超英才教育を施していたので、彼

の文武両道は納得できるところです。