昨日、「日本は実は鎖国をしていなかった」ことを、記しました。
それだけに、幕府の中には外交担当という部署も、あったの
です。
そして、幕末にその部門に就いていた川路としあきら、これ、漢字
に変換したいのですが、ないので、説明します。書籍にする時、ど
うしてるのでしょうね。今度、編集者の人に聞いてみます。大変さ
が、パソコンを使うようになってわかりました。
としあきらの「とし」は「聖」、「あきら」は、「言」に「莫」を組み合わせ
てそう読みます。この字が私のパソコンでは、出て来ないのです。
この川路としあきらという外交家、1852~1854年までの2年間、
国交のなかったといわれるロシアのプチャーチンと交渉をしていま
す。テーマは、北方領土。
この交渉で、択捉島(えとろふとう)以南は日本の領土とする取り
決めを、勝ち取っているのです。江戸時代に、このような交渉が
行なわれていたのです。
しかしその後、維新の際に川路は幕府側についたため、活躍の
期間は短く、江戸城明け渡しを前にして、ピストルで自決しました。
切腹でなく、ピストル自殺というのは、何とも幕府側らしくない
新しさですが、とにかく悲劇の人でした。この人の功績を誰か
が引き継げば、北方領土の後の成り行きも変わっていたのかも
しれません。
そして、この川路、今の時代の認識で読むと、誤解を生みそうな
遺書を書いています。
「おんなの申すことはたとえよきことにても聞かず」
これ、「平家にあらずんば人にあらず」の「人」がお上の要職のこ
とで「人間」を表してはいないのと同じ。「おんな」とは、「女性全般」
を指しているのでなく、「大奥の女たち」のことを言っているのです。
江戸後期は、大奥の発言権が高騰し過ぎて、やたら政治に口出し
し、ごり押しが通ってしまうことが多く、しょっちゅう混乱を呼んでい
たそうなのです。幕府全体が大奥の顔色を窺っていた。
そんな状況に、警告を発したものだと、言われています。