どうも、だーせんです。
プロフィールにも書いてますが、僕は仏教推しです。
仏教推しと言っても日本に伝わっている大乗仏教にはあまり興味はありません。
どちらかというとお釈迦様が説いていた原始仏教と呼ばれる仏教の思想に共感するところが多く、興味を持っていろいろ読書しています。
今回は最近とある仏教関連の本を読んで、「慈悲」と「愛」の違いを学んだので、アウトプットがてらそれを紹介したいと思います。
今回私が読んだ本は、
アルボムッレ・スマナサーラさんが書かれた、「夢と希望は捨てなさい~「苦」を理解すれば幸福の扉が開く~初期仏教の本」
という本です。
タイトルに惹かれて、購入しました。
内容は興味があれば各人読んでいただきたいのですが、この本の中で「愛」についての記述があり目から鱗が落ちるような内容だったので今回はそこに絞ってアウトプットしたいと思います。
さて、この世界は「愛」で溢れています。
今月末に控えている24時間テレビの副題も、『愛は地球を救う』というものでしたね。
みなさんも愛は必要か否かと尋ねられると、もちろん必要と答えるでしょう。
しかし原始仏教では、愛について議論することはありません。議論する価値も無いと言います。
なぜなら、愛はシステムだからです。
動物も本能的に愛することを知っています。自分の子に餌を与え外敵から守ろうとする、これは愛が原動力になっています。
種を保存するためにはこうした愛が欠かせません。それ故に、愛というのは私達の遺伝子に組み込まれているのです。そういう意味で、愛はシステムなのです。
ですので、「愛しなさい」と強要するのはおかしなことなのです。
筆者は愛を強要することを「愛菌」にかかっていると言います。そしてその元凶となったのは、一神教の信仰にあると言います。
「神を愛せ、さすれば救われる。愛さなければ地獄に落とす」こう言うわけです。
愛と脅しの合体は異常であると筆者は言います。
※「愛菌」というの言葉は筆者がそう呼んでいるだけであり、僕の考えとは無関係ですので悪しからず。
愛するという気持ちは、人間にふつうにあることです。人のことをどうしても愛してしまう。好きになってしまう。可愛いと思ってしまう。しかし、誰にでもあるこの感情が宗教に取られてしまうと、愛に脅しが割り込むのです。神を愛さない人々は悪人で、地獄に堕ちるものだとするのです。愛と脅しの合体は、異常な組み合わせだと思います。愛情はもっと平和的に、自動的に起こるべきなんです。周りが自分を助けてくれると、周りに対して感謝の気持と愛情が自然にわいてくるべきです。神の言葉だから他を愛する、というならば、それは自然の愛ではなく、危険な愛菌なのです。危険な愛菌が拡がると、皆、苦労するのです。(アルボムッレ・スマナサーラ「夢と希望は捨てなさい~「苦」を理解すれば幸福の扉が開く~初期仏教の本」)
愛が大事だという立場に立つと、苦しむことになると仏陀は言います。
「愛されたい」という欲が出てくるのです。
本当は、愛するから愛されるのです。それを理解できずに「愛されたい」が先行してしまうのです。
「私の子だから、母親である私を愛するのは当然だ」これは母親のエゴです。
子どもは独立した一人の人格であり、母親の所有物ではありません。
でも「愛されたい」というエゴに因われてしまうと、子どもをコントロールしようとしてしまうのです。
その結果、親も子も互いに苦しむことになるのです。
仏陀は「慈しみ」を持つように説きます。
「すべての命が幸福でありますように」と念じることが慈しみを持つということです。
人は一人では生きられません。
自分を生かしてくれる命があるから生きられるのです。
そして困ったときに助けてくれる人がいるから生きられるのです。
自分を生かしてくれている全ての命に、幸福を願う。それが仏陀の慈しみです。
これは仏陀しか説いていないことだと筆者は言います。
全ての命の幸せを願う。
世界中の全ての人間がこのように念じれるようになれば、本当に地球を救えそうな気がしてきますね。
地球を救うのは「愛」ではなく「慈しみ」なのかもしれません。
24時間テレビにその辺を変更してもらうように言っておきますね(嘘)