卒業式の後は一抹の寂しさを隠せない。それは何度繰り返しても慣れなくて。3年間、その成長を見守ってきた生徒たちの巣立ちは感慨深く、僕の心を波立たせる。特に、今年は…。
「若王子先生」
教員室で片づけをしていると、背後から声を掛けられた。振り返ると、ニコニコと笑う恰幅の良いスーツ姿の上司が立っていた。
「校長先生…」
「だいぶ片付いたようだね。ご苦労様」
「すいません。しばらくご面倒を掛けます」
そう言って僕は小さく頭を下げた。
いくら当時在職していた教員からの紹介があったとは言え、経歴もちゃんと明かせないような胡散臭い人間を教員として採用してくれたのはこの人だ。僕にとって、少なからぬ恩義のある彼に迷惑をかけてしまうのは心苦しい。けれど…。
「君がこの学校に来てから何年経ったのかね、若王子先生?」
「ええっと…」
ゆっくりと記憶の糸を手繰る。人の良さそうな笑顔を浮かべた上司は、僕が回答する前にニッコリと笑って言葉をつづけた。
「君は優秀な教育者だと私は思っているよ。何より、生徒たちの信望も厚い」
「そんな事は…」
「生徒と同じ視点に立ち、同じように学び、成長する。君は立派な教育者だよ」
校長の言葉に、僕は果たして本当にそうだったのだろうかと思う。不安定に揺れる心を押し込めて、偽善的な笑顔を浮かべてきただけの僕。誰にでも好かれるように、そんな人間を演じていただけではないだろうか。
「若王子先生。私はね、君の成長をとても楽しみにしているよ。君が今のその壁を乗り越えた時、もっと素晴らしい教師になれると思っている。だから…ちゃんと、帰ってきなさい」
「…はい」
僕の返事に満足そうにうなずき、校長は僕に背を向けた。僕は何とも言い難い気分になって、ただその背に向かって深く頭を下げた。
今、受け持っている生徒たちが卒業を迎えたら。それは少し前から決めていた事だった。僕が僕として生きていくために、そして君とちゃんと向かい合える人間になるために。
だから、どうしても君にだけはちゃんと話をしておきたかった。
『卒業式の後、少しだけ時間を作ってもらえませんか?』
久し振りに掛けた君への電話は、柄にもなく少し緊張した。受話器越しの君の声が以前と同じように弾んでいる事に、僕は少し君に感謝した。君がそうやって変わらぬまま僕に接してくれていたから。だから僕は…。
待ち合わせ場所に現れた君は、まだ見慣れた制服姿のままで。式典自体は午前中に終わり生徒である君はすでに僕の手から離れていってしまったのに、まだ僕の手もとに君がいてくれるような安堵感を覚えた。
「すいません、お待たせしました」
僕の姿を認めた君がふわりと微笑む。それは、初めて出会ったあの日から変わらない笑顔。
「…少し、歩きましょうか」
そう言って手を差し伸べると、君は少し恥ずかしそうに頷いてその小さな手のひらを重ねた。
『君に、ちゃんと話しておきたい事があるんだ』
卒業式を翌日に控えた昨日、部屋でのんびりしていると久し振りに先生から電話がかかってきた。
あれから、私の受験や先生の仕事が忙しくなった事が重なって、私たちはゆっくりと話す機会も得られぬままだった。でも、不思議と寂しいとは思わなかった。あの日、夕暮れの化学室で小さな子供のように震える先生を抱きとめたあの時から、ずっと続いている感覚。離れていても、どこかにあの人を感じているような、心が寄り添っているような。そしてそれは、きっと私だけが感じているものじゃないと信じられたから。
卒業式自体は午前中に終わり、私は誘われるまま仲の良かった友達とそのまま少し遊びに出かけた。先生との約束は夕方だったから、ご飯を食べたりおしゃべりしたりして。高校時代の思い出話で盛り上がった。みんな、卒業後の進む道はばらばらだけど、ずっと友達でいようと誓い合って。
この街に越してきて、色んな人に出会って。出会いは一生の宝だと誰かが言っていたけれど、本当にそうだと思った。
そして…私は一人、日の傾きかけた道を歩く。先生と、約束した場所に向かうために。
待ち合わせ場所に現れた先生は、制服姿のままの私を見て少し意外そうに眼を瞬かせたけれど。すぐに優しく微笑んで、手を差し伸べてくれた。
本当は一度家に戻って着替えてこようかとも思ったんだけど、もうこの制服を着る事もなくなるんだと思うと脱ぎ去りがたく思って。そして、何故だかこのままの姿で先生と会う方がふさわしい様な気がしたから。
差し出された大きな手にそっと手を重ねると、優しく包み込むように繋がれた。そして、先生はポツリポツリと色んな事を話してくれた。
子供の頃の事、米国へ渡る事を決めた時の事、研究所での事、そして、日本に戻って来てからの事…。
隣を歩く先生の顔からは何の表情も読み取れなくて。先生はただ、本当に淡々と過去の事をゆっくりと語る。初めて聞く先生の過去に、私はどうしていいか分からなくて。でも、先生がこうして過去を話してくれる事が少し嬉しく思って。ただ、先生の話しに黙って耳を傾けていた。
気がつくと、私たちは小さな公園の入口にたどり着いていた。私の方を見て少し微笑んだ先生に促されるまま、公園の中に入っていく。
「ここ…?」
「そう。覚えてますか?僕らが本当に初めて出会った場所です」
「はい…。先生、覚えていてくれたんですか?」
それは私がこの街に越してくる少し前の事。両親が新居の下見をしている間、私は新しく暮らす事になった街の散策をしていたんだ。そして、この公園の滑り台の下に捨てられて震えている仔猫を見つけた。
人気のない公園の真ん中にある滑り台を見て、隣に立つ先生を見上げた。先生は嬉しそうに微笑んでいた。
「もちろん、覚えてます。あの時の子猫、今ではすっかり大きくなってイタズラばかりしてます」
「ふふふ、良かった。元気にしてるんだ…」
何だか懐かしいな。そう思って私は視線をもう一度滑り台の方へ向けた。
あの頃の私は、新しい街で待ち受けていることなど何も知らなくて。ただ、見知らぬ街が新鮮でワクワクしてた。不安もたくさんあったけど、それを上回る期待に胸を躍らせて――。
ふと、隣に立つ先生が私の名を呼んだ。隣を見上げると、先生は真っ直ぐに私を見つめていて。ドキリと胸が音を立てた。
「僕は…ずっと、愛とか恋とか、そんな感情には否定的な考えを持っていた。僕には分からなかったから。人を好きになるという気持ちや、誰かを愛する方法が。だから、これまできっと随分ひどい事をしてきたと思う」
「若王子先生…」
「君は、君の知らない僕を知りたいと言った。でも…きっと君は、本当の僕を知ったらもう二度と僕には微笑みかけてくれないだろう。僕は本当に…酷い男、だったから」
先生の口調が重い。この人は、ずっと何かに苦しんできたんだと思った。本当は優しい人だから、自分が過去にしてきた事にそうとは知らず罪悪感を覚えて、そして今もそれに苦しんでいる、と…。
「若王子先生。私…思うんです。先生が今まで歩いてきた道があるから、今の先生がここにいるんだって。先生が選んできたものが一つでも違っていたら、今の先生はここにいないんじゃないかなって」
想いを言葉にするのは難しいけれど。ちゃんと伝わっていてほしいと祈りながら、私は言葉を続けた。
「だから、私はどんな先生でも受け入れたいと思ったんです。だって、先生はちゃんと私の眼の前にいるから…。私は、今この時、この場所にいる先生だから…傍にいたいと、思うから…」
先生は少し驚いたように私を見つめた。そして、何故か少し困ったように微笑んで独り言のように呟く。
「本当に君は……。君と出会ってから、君が僕を呼ぶたびに、君が僕に笑いかけるたびに、僕の中で不思議な感情が芽生えて行った。君が傍にいるだけで心が温かくなる。君が…僕に、ヒトを愛するという感情を教えてくれたんだ」
そして先生は一度眼を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。まるで自分を落ち着かせようとしているみたいに、吸いこんだ息をゆるゆると吐き出して眼を開いた先生は再び真っ直ぐに私を見据える。
「僕は、君が好きです。君を…愛してる」
どくん、と心臓が大きく脈を打った。どうしよう…すごく、ドキドキする。震えだしそうになる手をギュッと握りしめて、先生の言葉に応えようと口を開きかけた時。先生は少し微笑んで手を私の口の前にかざし、私の言葉を遮った。どうしたんだろうと眼を瞬かせると、先生はふっと眼を細める。
「先生、一度アメリカへ行こうと思ってます」
「え…?」
「もう一度アメリカへ行って、ちゃんと話をしてきます。…本当は、もっと早くそうするべきだったんだ。ただ逃げ回るだけじゃなくて、ちゃんと立ち向かわなくちゃいけないと、そう思ったから」
突然の言葉に、驚いて私はただ眼を丸くする。そんな私に、先生はいつものようにふんわりとした笑顔を浮かべた。
「君が教えてくれたから。ちゃんと立ち向かう勇気を、その身をもって示してくれたから。時間が掛かるかもしれない。1週間…1ヶ月、もしかしたら、もっと…。でも、僕はちゃんと戻ってくるから。彼らと話をつけて、君とちゃんと向き合える人間になって戻ってくる」
「先生…」
「だから、その時まで…待ってて、くれますか…?」
私を見つめるその瞳は、もう迷いも陰りも含んでいなくて。ああ、もう大丈夫なんだと唐突に思った。何が大丈夫なのか、自分でもよく分からなかったけれど。きっと、もう大丈夫なんだ。だから、私は先生の言葉に頷いた。
「はい。私…待ってます。その時まで…」
「…ありがとう」
先生は小さく微笑んで、私の髪をひと束その指ですくい上げた。
「約束する」
それはまるで、誓いを立てるように。その髪の先に、先生はそっと口づけて囁く。
「必ず、君の元に戻ります。だから…」
だから、その時まで…。
(終わり)
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今シリーズは若王子先生が自分の過去と正面から対峙できるようになるまでが一応のテーマでしたので、今作を持ちまして終了となります。
今後の二人に関しては、また別の機会に…などと密かに画策中ですw
また次回作を楽しみにお待ちいただけると嬉しいですo(^▽^)o