ずっとブログ書かなくてごめんなさい。
実はすごく忙しくて。。。仕事だけじゃなく、、、
大変だった。
大好きな母が7月3日(土)に他界した。
実は昨年の8月から膵癌を患い、ずっとがんばって闘病していた。
背中が痛くて痛くて、モルヒネを始め、たくさんの痛み止めと薬を服用していた。
ぶちはできるだけ毎日母に電話をし、帰れる時はなるべく浜松に帰るようにしていた。
そしてとうとう、彼女は逝った。
母の順子は日中戦争の頃、朝鮮(現北朝鮮)にて昭和19年4月30日に生まれた。

祖父は仕事で挑戦に赴任しており、そこで招集にあった。
通信兵だったため、終戦をいち早く知り、故郷の鹿児島に帰る。
一度祖父とはぐれてしまったらしいが、奇跡的に再会でき、日本に帰った。
鹿児島県大口市宮人という山奥での貧乏暮らし。
働き者の両親。
母の下には弟一人、妹二人。
とっても美人で、人気者だったらしい。
母も家を手伝いながら、子守りをしながら、勉強を一生懸命したらしい。

この写真、実はぶちの学生時代とそっくり!笑
母とは似ていないと思っていたのだが、これを見て誰より自分がびっくりした。
ちなみに、この写真は、です。
他の写真はもっと美人だった。。。苦笑。
そして就職。
いろいろあり、東京にでる。
そこで父と出会った。
異性の友達同士が何人かずつ連れて来た一人だったらしい。
そこで、母に一目惚れした父。
千葉の海で、白と黒のチェックのセパレートの水着を着ていたのだそうだ。
今でもその姿を思い出すと病院のベッドの脇で父が言っていた。

母は本当に苦労人だった。
自分のことは何でも後回しで、とにかく私たちに愛情を注いでくれた。
化粧気もなく、飾らない、
いつもポンポン(原付)を乗り回し、裏道を発見しては喜んでいた。
料理はそんなに上手ではなかった。
凝る暇もなかったのだ。
こんなことがあった。
私が小学生で水泳部に入っていたとき、大会に応援にいくことになった。
みんなお弁当を持参するよう言われ、母に頼んで寝た。
翌日、会場へ向かうバスの中で、友達が言う。
友「今日さ、お弁当のおかずちょっとしかないから恥ずかしいんだ。」
ぶ「気にしなくていいよ!私の分けてあげるから!」
大会が始まり、しばらくしてお弁当を食べる時間。
ぶちが蓋を開けると、白と黄色のみ。
???
御飯と卵焼きだけだった。
わーーーーん。
大泣きをするぶちに、友達が言った。
「いいよ!私の分けてあげるから。ね。」
その後、公衆電話で母に抗議した。
「どうしてこれしか入ってないよ!」(方言の言い回し。責める感じ)
今ではいい思い出だ。
毎日毎日、短気な父と肉体労働の仕事をし、夜は私たち(ぶちと妹)の卓球のため、クラブに連れて行ってくれたり、公民館を借りてくれて一緒に練習したり。
忙しくてもマラソン大会を始め、いろんな行事に来てくれた。
そんな母のためにも私たちはがんばった。
私が部活で帰りが遅いと、ポンポンで迎えに来てくれて、二人乗りして帰った。
(本当はしちゃだめだけど。もう時効だね。)
春の日曜日は家族四人で母が作ったおにぎりを持って奥山へ蕨採りに行った。
お花が大好きで、趣味は庭いじり。
雑然とたくさん植えていた。
自然な庭がいつも良い香りを放っていた。

何の欲もなくて、本当に働き者で真面目な人だったな。
そして人には優しく、元気を与えて回っていた。
いつでも人のため。
自分のことは後回し。
こうやって思い出すだけでどうしても涙が止まらなくなる。

やっと楽になれたね。
天国はきっと見たこともないお花がいっぱいだろうね。
お母さんのこと、ずっと忘れないよ。
産んでくれてありがとう。
(去年のぶちの誕生日にそう伝えたら、『へえ。そういう言い方もあるんだね。』って言ってた。)
愛してくれてありがとう。
自分にとってはこれ以上の母親はいません。
これからお母さんに恥じないように生きていくからね。
この悲しみを必ずいい歌に代えるからね。
残されたお父さん、妹夫婦、そして生まれてくる姪をお母さんの分も愛するからね。
心配しないでどうか天国で楽しい日々を送ってね。
太陽のような笑顔、忘れません。
またあっちで会う日まで元気でね。
まだまだ書ききれないけど、今日はこのへんにしとくね。

追伸
今日は体調不良で浜松に帰れなくてごめんね。
三七日法要、無事に済んだよね?
いつも心配かけてごめん。




あ、それから、知ってるかも知れないけど、
お父さんがついに何十年来で口ひげを剃ったよ。
びっくりしたでしょ、お母さん?

大好きなお母さんへ。

亜希子
実はすごく忙しくて。。。仕事だけじゃなく、、、
大変だった。
大好きな母が7月3日(土)に他界した。
実は昨年の8月から膵癌を患い、ずっとがんばって闘病していた。
背中が痛くて痛くて、モルヒネを始め、たくさんの痛み止めと薬を服用していた。
ぶちはできるだけ毎日母に電話をし、帰れる時はなるべく浜松に帰るようにしていた。
そしてとうとう、彼女は逝った。
母の順子は日中戦争の頃、朝鮮(現北朝鮮)にて昭和19年4月30日に生まれた。

祖父は仕事で挑戦に赴任しており、そこで招集にあった。
通信兵だったため、終戦をいち早く知り、故郷の鹿児島に帰る。
一度祖父とはぐれてしまったらしいが、奇跡的に再会でき、日本に帰った。
鹿児島県大口市宮人という山奥での貧乏暮らし。
働き者の両親。
母の下には弟一人、妹二人。
とっても美人で、人気者だったらしい。
母も家を手伝いながら、子守りをしながら、勉強を一生懸命したらしい。

この写真、実はぶちの学生時代とそっくり!笑
母とは似ていないと思っていたのだが、これを見て誰より自分がびっくりした。
ちなみに、この写真は、です。
他の写真はもっと美人だった。。。苦笑。
そして就職。
いろいろあり、東京にでる。
そこで父と出会った。
異性の友達同士が何人かずつ連れて来た一人だったらしい。
そこで、母に一目惚れした父。
千葉の海で、白と黒のチェックのセパレートの水着を着ていたのだそうだ。
今でもその姿を思い出すと病院のベッドの脇で父が言っていた。

母は本当に苦労人だった。
自分のことは何でも後回しで、とにかく私たちに愛情を注いでくれた。
化粧気もなく、飾らない、
いつもポンポン(原付)を乗り回し、裏道を発見しては喜んでいた。
料理はそんなに上手ではなかった。
凝る暇もなかったのだ。
こんなことがあった。
私が小学生で水泳部に入っていたとき、大会に応援にいくことになった。
みんなお弁当を持参するよう言われ、母に頼んで寝た。
翌日、会場へ向かうバスの中で、友達が言う。
友「今日さ、お弁当のおかずちょっとしかないから恥ずかしいんだ。」
ぶ「気にしなくていいよ!私の分けてあげるから!」
大会が始まり、しばらくしてお弁当を食べる時間。
ぶちが蓋を開けると、白と黄色のみ。
???
御飯と卵焼きだけだった。
わーーーーん。
大泣きをするぶちに、友達が言った。
「いいよ!私の分けてあげるから。ね。」
その後、公衆電話で母に抗議した。
「どうしてこれしか入ってないよ!」(方言の言い回し。責める感じ)
今ではいい思い出だ。
毎日毎日、短気な父と肉体労働の仕事をし、夜は私たち(ぶちと妹)の卓球のため、クラブに連れて行ってくれたり、公民館を借りてくれて一緒に練習したり。
忙しくてもマラソン大会を始め、いろんな行事に来てくれた。
そんな母のためにも私たちはがんばった。
私が部活で帰りが遅いと、ポンポンで迎えに来てくれて、二人乗りして帰った。
(本当はしちゃだめだけど。もう時効だね。)
春の日曜日は家族四人で母が作ったおにぎりを持って奥山へ蕨採りに行った。
お花が大好きで、趣味は庭いじり。
雑然とたくさん植えていた。
自然な庭がいつも良い香りを放っていた。

何の欲もなくて、本当に働き者で真面目な人だったな。
そして人には優しく、元気を与えて回っていた。
いつでも人のため。
自分のことは後回し。
こうやって思い出すだけでどうしても涙が止まらなくなる。

やっと楽になれたね。
天国はきっと見たこともないお花がいっぱいだろうね。
お母さんのこと、ずっと忘れないよ。
産んでくれてありがとう。
(去年のぶちの誕生日にそう伝えたら、『へえ。そういう言い方もあるんだね。』って言ってた。)
愛してくれてありがとう。
自分にとってはこれ以上の母親はいません。
これからお母さんに恥じないように生きていくからね。
この悲しみを必ずいい歌に代えるからね。
残されたお父さん、妹夫婦、そして生まれてくる姪をお母さんの分も愛するからね。
心配しないでどうか天国で楽しい日々を送ってね。
太陽のような笑顔、忘れません。
またあっちで会う日まで元気でね。
まだまだ書ききれないけど、今日はこのへんにしとくね。

追伸
今日は体調不良で浜松に帰れなくてごめんね。
三七日法要、無事に済んだよね?
いつも心配かけてごめん。




あ、それから、知ってるかも知れないけど、
お父さんがついに何十年来で口ひげを剃ったよ。
びっくりしたでしょ、お母さん?

大好きなお母さんへ。

亜希子