長宗我部元親が土佐(高知)を統一する前

一条氏が土佐西部を治めてました。


戦国時代になんで公家が土佐を治めているのか?


もともと土佐は細川氏の領国でした。

細川氏は室町幕府三管領のうちのひとつで

丹波、和泉、阿波、土佐、備中と守護領国を持ってました。

ただこれは細川一族でです。

細川本家は京兆家といい京都周辺を治めていて、

備中細川家、阿波細川家とか和泉細川家とかまあ一族で地方を治めてるんですね。


話は戻ってなぜ公家が土佐を治めているか?というと


一条氏は五摂家で藤原氏の子孫なんですね。

関白の家柄。


応仁の乱が起こった頃に

京都では住めないな、

地方へ疎開しようと。


で大和の興福寺に避難するんです。

興福寺は藤原氏の氏寺で

実質的に大和守護なので

まあそこにいけば安全なわけです。


その頃一条氏の荘園は主に4つほどあって

福原の荘園以外は横領されていて

唯一の収入は福原の荘園からだけだったんですね。


で興福寺に疎開したはいいけど

世話する人とかも含めるとキャパオーバーだったんですね。

で長男を福原の荘園に送り込み別居

自分は越前の朝倉氏に横領されてる荘園を返してもらおうと越前まで下向して交渉します。

朝倉氏は関白が来たぞ、

荘園返す気はないけど手切れ金2000万ほどあげて

帰ってもらおうと。


でその2000万をもとに

四国中村の長年収入が途絶えてた荘園が

どうなってるか疎開がてら見にいこうとなるわけです。

で四国に移住するわけです。


その頃の守護は細川氏だけど

細川氏は土佐の領国支配に熱心ではなくて

代官を置いてる程度だったので

荘園を取返せました。

ここで役に立ったのが

一条氏に伝わる代々の文章です。

土地所有の正当性を示す文書類が

すべて保管されていたのです。

応仁の乱の火災消失を避けるべく

すべてを持ち出していたのです。


で、土佐西部を支配できたという感じです。


土佐を7家で分割統治してるんですけど

一番大きい面積を支配してるのが一条氏。

他の六家は残りの土地を治めていて

すべて細川氏の代官です。

その中の一つが長宗我部氏。

長宗我部氏は一条氏に助けられつつ

他の五家を倒して東部土佐を統一。


一条氏と長宗我部氏の決戦が行われて

長宗我部氏が勝利して土佐統一となるわけです。


戦国時代に公家が一国を支配していたのは

北畠氏の伊勢

一条氏の土佐しかありません。

他の64カ国は武士が支配していたんですね。


公家がトップの稀有な存在。

彼らは守護ではなくて

国司を名乗ってますね。