2002年の日韓ワールドカップは「嫌韓」をネット上に広げたと同時に、後のフジテレビデモなどにいたるマスコミへの懐疑を強めたのは間違いなかったろう。
だが、一人マスコミと韓国を批判した飯島愛氏の行動が「特殊」と見られたような、当時のマスコミにはどんな思惑があったのだろうか。
『朝まで生テレビ!』などの人気番組を立ち上げた、大阪芸術大学の純丘曜彰教授は「韓国文化戦略の失敗に学ぶ」という記事で、この前後のマスコミの内部に見られた動きを次のように述べている。
「一般に韓流ブームは、2003年にNHKのBS2で『冬ソナ』が流されたのが端緒と理解され、その国家戦略としての支援は2009年の韓国大統領直属の国家ブランド委員会の設置によるとされている。
しかし、マスコミの末席に関わらせていただいていた者としては、1990年代に入る頃からすでに劇的に親韓中堅の全学連世代や在日の若者たち、韓国からの留学研修生が新聞や雑誌、テレビなどの内部に喰い込み、大きな影響力を持ち始め、日韓交流を唱う企画をあちこちで立ち上げ始めたという印象を持っている。
(中略)
この韓流ブームの背景に何があったのか、それが韓国側によるのか、日本側によるのか、政治的なものなのか、民間主導なのか、一般人の計り知れるところではない。
しかし、たんなる自然発生と言うには、あまりにも関係する規模も予算も大きく、相応のなにかの配慮ないし圧力の下での動きだったのではないかと思わざるをえない。」
http://www.insightnow.jp/article/8379 より
こうした噂は当時から2ちゃんねるでもしばしば見られた。
テレビ局や業界関係者の中に「韓国を批判しないようにしろ」という命令がどこからか出ているのではないか。
また、そうした圧力が局の内部でかかっているのではないか、というものだ。
ただ、ネット壮士たちがこうした考えを持つようになったきっかけは、もちろんさらにこれ以前にも遡る。
すでに北朝鮮をめぐる報道に対しても、様々な圧力が過去に加えられていることをハングル板たちの住民たちなどは知っていたからだ。
参考: http://members.xoom.virgilio.it/alice275193/sonota.htm
普段「言論の自由」を主張する彼らも、圧力や利益関係には案外弱いのだ。
このため、やがて自分たちの都合で重要なことを伝えようとしない、あるいは情報を歪曲して伝えようとするマスコミの姿勢を揶揄して「マスゴミ」という言葉がネットでは生まれる。
マスコミの中立性と公正さを考える上で、この提起には明らかに敵意が込められた「マスゴミ」という表現はともかくとして、一定の意味はあるだろう。
しかし、困ったことにはこうした批判は同時に「テレビは在日にのっとられている」という陰謀論をも生んでしまい、これはその後もネットのあちこちに伝播され、後々まで幽霊のように現れることになり、今もなおこうした主張が絶えることはない。
こういった主張に傾いていくような過激さは、初期のハングル板の住民たちにはあまり見られないものだった。
彼ら初期のネット壮士たちの態度が、北朝鮮や韓国を観察しながらも、もっぱ情報の収集や議論に徹していた(ただ、ほとんどは「雑談」だったが)「観察者」といえたのに比べ、この時期から増えだした新規の嫌韓層は明らかに攻撃的なものが多かった。
そのため、ハングル板のユーザーが「コリアンウォッチャー」を名乗っていたのに対して、こうした新規の韓国嫌いは後に「嫌韓厨」と呼ばれるようになる。
「厨」とは、この場合では「中毒」という意味に近いスラングで「とにかく韓国が嫌いでどうしょうもない人々」というくらいのものだろう。
ここには「うるさくて迷惑な連中」という意味合いもいくらかは込められていた。
こうした強硬な「嫌韓厨」の中でも、とくに行動的な層が、後の在特会(「在日特権を許さない会」)などの過激な団体を生む基盤にもなっていく(ただし、在特会は初期から今のような活動をしていたわけではなく、「ごく」初期には古参のネットユーザーも多く参加していた)。
しかしこれはまだ後の話になる。
2002年当時、ネットは確かにごくわずかな期間の間に一気に「嫌韓」、「嫌マスコミ」へと傾いていったものの、当時2ちゃんねるなどでも一部を除けば、相変わらず政治運動への関心などほとんどまだ見られなかった。
当時のネット住民たちは、ネットはあくまで遊びの場だと考えていたのだ。
そのためこの日韓ワールドカップを発端にした「マスコミへの批判」もテレビ局へ直接デモを行うような今の半ば政治団体化したネット壮士たちの一部に見られるようなものではなく、むしろマスコミの姿勢をネタにしてからかってやろうとするユニークなオフ会の企画となってあらわれる。
これこそ2ちゃんねるの「伝説の祭り」とされる「湘南ゴミ拾いOFF」であった。
この発端はあるスレッドに書き込まれた「フジテレビの27時間テレビで湘南海岸のゴミ拾いをやるらしいけど、先回りして全部ゴミを拾っちゃったらどうだろう」というひとりの思いつきのようなものだったという。
するとトルコ、韓国戦を報道したフジテレビの姿勢には反感を持っていた2ちゃんねらーたちからは「面白いな、やろう」と、次々と賛同者が集まっていった。
かくして「祭り」の期間は7月5日から、7日までの三日間に決まり、それぞれが手作りのゴミ袋を持参したり、また有志によるおにぎなどの差し入れが行われるなど、抗議よりも、オフ会に参加することを楽しむというほのぼのとした雰囲気で行われたという。
当初、あまり参加者はいないだろうと見られていた祭りは、しかし思いがけず盛況で、現地参加者からの2ちゃんへの報告が増えるにつれ、さらに参加者は加速度的に増えるという具合で、その最終的な参加人数は不明とされる。
参考: http://live.2ch.net/test/read.cgi/festival/1026024421/
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2122626
この祭りが伝説といわれる理由はもちろんこの盛り上がりにもあったが、同時に当時のネットの「らしさ」が良い方面に現れたことによるだろう。
2ちゃんのまつりは、誰もが参加者の一人であり、一応のまとめ役はいても、代表やリーダーはいない。
別にリーダーやまとめ役がいなくとも、ひとつの方向を向いたネットユーザーたちには不思議と結束力が生まれるのはその後のネットでもしばしば見られる現象だったが、それはインターネットが匿名で行われていた時代の産物でもあった。
こうして続けられた三日間に渡るゴミ広いの結果、フジテレビの番組スタッフがあらわれるよりも前に、2ちゃんねらーたちは湘南海岸からほとんどすべてのゴミを拾ってしまうことに成功する。
作戦の成功に満足し、後は放送がどうなるかを見守っていた2ちゃんねらーたちだったが、(やはり)こうした彼らの活動が番組の中で紹介されることはなく、後にやってきたテレビスタッフと、集まったボランティアたちはすでにゴミ片づけが終わっていた海岸を動き回り、自分たちが海岸を綺麗にしたように編集した番組を流しただけだった。
この「手柄の横取り」に対して、2ちゃんねらーの一部からは抗議を行おうとする動きもあったたものの、多くの2ちゃんねらーたちはすでにこの善意のいたずらに満足していたため、あまり激しいものとはならなかった。
ようするに「後味がよかった」のである。
今となっては悪いところばかりが取り上げられ勝ちな2ちゃんねるではあるが、「祭りは面白さが第一で、メッセージ性はあくまで二の次でいい」という当時の2ちゃんねるが持っていたこうした性格は、やがてニコニコ動画やtwitterなどにも部分的に継承され、日本のネット文化の一面を担う重要な要素となっていくようになる。
(続く)