『地獄先生ぬ~べ~』と『いずな』 ――現代の怪談話―― | 十姉妹日和

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つれづれに書いた日記のようなものです。

今でも少年ジャンプといえば人気がありますが、ボクが小学生の頃、連載ラインナップがものすごく豪華な時期があったんです。

鳥山明先生の「ドラゴンボール」にはじまり、「ダイの大冒険」、「みどりのマキバー」、「るろうに剣心」と、よくあれだけの人気漫画が集まっていたなあと思います。


そんな数ある作品群の中でも、ボクがとくに好きだったのが「地獄先生ぬ~べ~」でした。

バトル漫画の多かったジャンプの中でも、ぬ~べ~はホラーとお色気、それにギャグや感動路線を盛り込んだ一話完結形式のものが多くて、ちょっと変わった印象だったんですけど、少年漫画のホラーって意外と少ないんですよね。

小学校のときに学校で漫画の回し読みが流行ったことがあるんですが、そのときにホラー系の少女漫画を読んで、よく女の子はこんな怖い漫画読んでるなあと思ったものです。

ぬ~べ~でも、結構当時は怖い話しがありました。例えば「てけてけ」とか、「メリーさん」。それに四次元に住んでる妖怪の話なんかも、読んだことのある人は「ああ、あれかあ」と思うんじゃないでしょうか。


現在、ぬ~べ~のスピンオフ作品で「霊媒師いずな」というシリーズが連載されていますけれど、こちらはぬ~べ~の世界観をエロさ増量でそのまま引き継いでいるような感じがあります。

そのため、いずなが成長したといいますか、かなり説教くさいキャラになっているような印象があって、ニートが読むといささか心が折れるような話しも多いんですがね。

「いずな」の特徴としては、死ぬことや人生を諦めることはけして良くない。どんなときでも、がんばって生きていかないとダメなんだ、というメッセージ性が強いことかも知れません。

いずなはそれができないときに、ほんのちょっとだけ手助けをしてくれる、お助けキャラのような存在なんです。

このあたりにホラー、妖怪漫画の神様水木しげる先生が徹底した死生観の中で「生きてる方が辛いこともある」というのとはかなり対照的かも知れません。余談ですが、水木さんの作品の中で一番重い言葉は「一番怖いのは赤貧。その次が戦争」というものでした。両方経験されている方だけに、これはもうすごい言葉だと思います。


ともあれ、いずなや水木先生はおいて置いて、ぬ~べ~の本編ですが、色々思い出してみますと、必ずしも妖怪漫画じゃないんですよね。出てくる妖怪や怪物たちも、伝統的な妖怪が現代的に進化したものや、都市伝説から生まれたもの、それに宇宙人(?)から、四次元の怪人、果ては未確認生物(UMA?)まで様々でした。

例えば、ケサランパサランという妖怪ですが、これは都市伝説じゃなくて、実際にいます。ボクも過去に2、3回見たことがあります。

「幸福の毛玉」と作中ではいわれていますけれど、空気の中をふわふわ浮かびながら移動していて、一度捕まえようとしたら手の中から逃げていったので、もしかしたら意思のある生き物なのかも知れません。

なお、本編の中ではケサランパサランにお願い事をすると、願いが叶うとされていましたけれど、さすがに現実ではそういうことはなかったようです。


その他に、例えば口裂け女の話ですとか、「青い紙、赤い紙」や、「怪人赤マント」の都市伝説と融合した「謎の怪人A」もそうですが、妖怪物語や怪談というよりも、子供たちの思う「怖いもの」を描こうとしていたように思います。

そういう風に考えていて、ふと思い当たったのが「化物語」のCMのセリフにもある、「怪異とは世界そのものなのだから」というあららぎさんのあの言葉なんです。


いつの時代でも、新しい怪談話というのは常に生まれていきますが、その担い手になっているのは、あの当時も、そして今もおそらく子供や若い世代だろうと思うんです。

つまり、怪物や妖怪の世界もそういった担い手がいることによって次々に生み出されていくという現象があるんじゃないでしょうか。


一度興味があって調べたことがあるんですけれど、以前に「渋谷七人ミサキ」という都市伝説がありました。

これはwikipediaの「七人ミサキ」の項目にも追加されていますが、渋谷で援助交際をしていた女子高生たちが赤ん坊を中絶したところ、次々と赤ん坊たちの怨念に惨殺された、あるいは赤ん坊たちが甦らせた伝説の七人ミサキによって殺されていったという話なんです。


しかし、七人ミサキというのはもともと四国の伝説なんですね。

実際、話のモデルになった土地には七人ミサキのもとともいえる、長宗我部家のお家騒動で非業の死を遂げた吉良親実と、その家臣たちを祭った吉良神社があります。

こんなご当地ネタのような怪談話が全国に広まり、しかも現代の渋谷に甦ったのはなぜだろうと考えて見ますと、これはおそらくですが「ぬ~べ~」や、同じく怪奇漫画の金字塔である「孔雀王」の中で、七人ミサキが現れて、しかも凄まじい力を持った怨霊として強烈なインパクトを残したことに原因があるように思うんです。

ちょうどこの渋谷七人ミサキの都市伝説が生まれたのが九十年代の半ばのようですから、孔雀王はともかく「ぬ~べ~」の連載時期とはほとんど一致しているといってもいいでしょう。


そこで「ぬ~べ~でも倒せなかった、最強の怨霊七人ミサキ」の存在が、当時問題になっていた援助交際の話と結びついて、こうした都市伝説を生んだのだとしたら、そのまま「いずな」のネタにもなりそうな感じがあります。ともあれ、いわゆる後世の「もっともらしい偽ものの怪談」が出来上がっていくのにはこういう背景があるのかも知れません。


「世に不思議は多けれど どれほど奇天烈 奇奇怪怪な出来事も 人がいなければ 人が見なければ 人がかかわらなければ ただの現象 過ぎていくだけの事柄 人こそ、この世でもっとも摩訶不思議なもの」


これはCLAMP先生の「xxxHoLic」で侑子さんがいうセリフですが、同じことはアニメ「化猫」シリーズの「モノノ怪」にもいえます。

この世に奇怪な現象を引き起こす「モノ」とは、つまり人の怨恨が何かに宿り「化けた」(怪)ものです。そして、それを作り出しているのはそれを見ている人間なのではないでしょうか。


しかし、そうしたものに巻き込まれたときに、子供たちはまだ自分で自分を守る術がありません。

幽霊とか妖怪というのは、もちろん愉快なものもたくさんいますが、ほとんどは人の恐怖の作り出した産物ですから、襲われる子供にとっては理不尽以外の何ものでもないんですね。

そのときに、子供たちを守る大人が必要なんだというのがぬ~べ~の決め台詞にある「俺の生徒に手を出すな!」という一言に、強烈に込められているように思うんです。


ただ、「いずな」を読んでいてもこれは感じることなんですが、ぬ~べ~の原作者の真倉翔先生も、岡野剛先生も、侑子さんのように「それを選んだのはあなた」と、相手を突き放すことは依頼人が大人であったもできないんじゃないかと思うんです。

「ぬ~べ~」に比べて「xxxHoLic」が大変シビアだと思うのはそこで「他人と関わることはとても難しいことなんだ」という部分を侑子さんがはっきりと相手に告げて、それ以上不必要には関わろうとしないことが大きいんじゃないでしょうか。



一度、誰かを助けようとしたときに、自分も何かを失うことがある。あるいは相手を背負い込むことで、自分も悪い方向にいってしまうこともめずらしくはない。そのために「あなたはどうしたいの?」と、選択の度に問いかける侑子さんは一見冷たいようなんですが、その難しさをよく知っている人なんですよね。

「俺の生徒」だからという理由だけで、身体をボロボロにしながらも戦うぬ~べ~は、すごくかっこいいんですが、そこにどこか理想的な人物、そしてとても及ばない聖人のようなものを感じてしまったときに、段々とみんなぬ~べ~先生の生徒ではなくなっていくのかも知れません。


「いずな」はそのぬ~べ~の姿を大人を相手にやっているのだとしたら、どうなんでしょう。

もう一度ぬ~べ~に会いたいと思う反面で、いずなのいう「がんばって」という言葉に、素直に励まされるだけの気持ちのある人はどれだけあるのか。

その意味で、ボクは「いずな」を読んでいてもとても懐かしい感じがするんです。それに、今でもぬ~べ~は面白いと思います。しかし、やはりできるなら子供のときにぬ~べ~のような人と会いたかったと思いました。


ぬ~べ~の生徒達も、やがて「xxxHoLic」の四月一日や、「化物語」のあららぎさんのように、自分の価値観、自分の世界を創りだしていくときに、他人と関わる面倒くささを強烈に意識していくようになる。

そこにはもう「生徒だから」といって守ってくれる先生も、いつでも助けてくれるだけの友達はいません。

そのために、関わることになる怪異の姿も実に内面的なものになっていくんですね。


「ドラえもん」はできるだけ子供に読んでもらいたいと思いますし、「ぬ~べ~」もやっぱりそういう漫画だと思います。

そして、そこからまた遠ざかったときに何か懐かしいような思い出になる、そんな作品なんじゃないでしょうか。


今回も読んでいただき、ありがとうございました。