すべてのものに心を動かされる、繊細な幼い折に受けた
親からの罵り(ののしり)に、それは端を発することが多い。
折れそうな心を歯を食いしばって、立て直そうとしたときに、
信じていた友からまた、思いがけず裏切りのようなものを受ける。
それでも風を受けて生きてゆかねばならぬと悟り、
異性を愛することを知ったが、腰を上げたところに別れが待っていた。
それを繰り返し経験することによりオトナになってゆくのだと
聞かされたが、想像以上に重い。
カウンセラーだという者に傾倒して
手放すことを誘導してもらえたので、手放してみた。
とても簡単だったし、確かに楽になった。
だが何かのきっかけで、手放したはずのものが
一斉に牙をむいて襲い掛かかってきた。
カウンセリングで慰められたことと、現実とのギャップが
あまりにも大きく、そして底なしに深いのだ。
それに打ち震えながら過ごすことを強いられるから、たまったものではない。
幾重にも張り巡らされた恐怖に束縛されている
想像を絶するような状況を迎えるが、誰にも解かってもらえない。
いつしか、生まれてきたことそのものが、恨めしくなってしまう。
いっそのこと、死んでしまったほうが楽になれると思いはじめた。
これを とらうま と云う。
ああ、なんてタイミングの悪い人生だろう。
世の中はそんなもので満ち溢れている。
よく見回すと、
罵った親も、裏切った友も、離れていった愛する人も、
そしてカウンセラーも
みな一様に、とらうまの塊だった。
とらうまは、手放すことなどできない。
逃げることなど叶わない。
ましてや他人がそれを取り除くことなど笑止千万。
自分のものを取り除いてから云ってほしい。
とらうまを変える事は、その本人にしかできない。
だから、細かく分解して、きちんと向き合って整理して、
「記憶」に変えてゆけばいい。
時間がかかるし、変えようとすると、またまた大いに苦しむ。
でもこれはちゃんと苦しんであげようよ。
時間はかかるけど、もう一度襲いかられるよりは、はるかにマシなはずだ。
ほとんどの場合「第三者」との関係性によるものだから、
独りで構築したものではない。
もちろん時の運も在るだろう。
じっくりと自分を説得してみること。
場も条件も生成過程もすべて、
もう一度だけ、たった一度だけ、自分の舞台に引き出してみる。
不幸な死に方をした霊に対する「供養」に、とてもよく似ている。
「記憶」に変れば、それらは「経験」という財産になり、
心の引き出しに大切にしまっておいて、
いつでも無毒の状態で引き出すことができるようになる。
新しいものから順番に、そしてやがて幼き時に遡るように、
とらうまの棚卸しに取り掛かってみてはどうだろう。
そう決意して、はじめて神仏が寄り添い、信仰が始まるのかもしれない。
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