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本になるブログ、ならないブログ

 『「嫁にしたくない女No.1」幸せな結婚ってなあに? 』が、『ヒトのにくばかりやくな』(中野スカ )として、マイクロマガジン社から書籍化されました。中野さん、おめでとうございます!


中野 スカ
ヒトのにくばかりやくな―内職イラスト師家庭内部告発絵日記

 このブログは、アメブロの子育て部門で第1位になったこともある人気ブログだ。

 単行本の目次は、こんなふうになっている。

■ねんねの章  産まれる前~ムスメ3カ月
ふたりめはかわがのびてるのででかくなる/ひみつの妊婦のハラ事情/
ギシギシガンガン乳腺炎 ほか
■ねがえりの章  ムスメ4ヵ月~6ヵ月
見切り発車で年末進行/バケツ三段活/育児おっぱい@ヤバいグッズ ほか
■はいはいの章  ムスメ7ヵ月~8ヵ月
おかあちゃんのねぞう/暴露公園/アトピーとやさぐれと ほか
■つかまりだちの章  ムスメ9ヵ月~10ヵ月
授乳間隔/世間感覚/裸族、心得の状/いくじのよあけ ほか
■つたいあるきの章  ムスメ11ヵ月~12ヵ月
物忘れと捨て忘れ/くろくてわるいの/はじめてのおるすばん ほか

 ここでぼくが考えるのは、コンセプトがはっきりとしたブログこそが書籍化される可能性を持っている、ということだ。
 ブロガーの人達の何割ぐらいが自分のブログをやがて書籍にしたいという希望を持っているのか、なかなか難しいところでぼくにもよくわからない。だが、デジタル優先の今の時代においても、「本」というメディアがある種の魔力を持っているのは事実だろう。
 そんな今、出版社が目をつけるのは、やはり第1に、そのブログが明確なストーリィやコンセプトを持っているか、ということだ。
 『ヒトのにくばかりやくな』には、その点「子育て」という明瞭な縦糸がある。これは、やはり強い。アメーバブックスで出版させたいただいた「実録鬼嫁日記」や「語源ブログ」などにしても同じである。
 もちろん、ブログはブロガー達が身辺雑記的な文章を締め切りなどの制約なしに書けるのが大きな美点である。
 しかし、単行本を目的地に設定する場合は、コンセプトワークがとても大切だということだ。
 そして、コンセプトは、自己というものを正確に対象化できた時にだけ生まれるものなのである。

吹き溜まりの雀たち



■吹き溜まりの雀たち  
大学時代バイトしていた、雀荘で出会った人達を描いたエッセイ。毎月2回、1日と15日に更新。尚、作中の店名・人名は全て仮名です。 また、日々の生活の中で、どこかから湧き出た声の小文。こちらはちょくちょく更新。


 麻雀のついてのブログで、スタンスが非常に爽やかである。「だから、吹き溜まりにいるんだよ」というような記事もあるのだが、全体の読後感はどこまでも爽やか。
 なぜだろう? 著者のキャラクターによるところが大きいのかもしれない。

 それからもうひとつの要因は、ブログというメディアが持つ特性である。

 この国ではギャンブルでお金のやりとりをするのは違法であり、賭け麻雀もその例外ではない。ところが、多くの人が賭け麻雀をやったことがある。不思議なようだが、やはり麻雀には後ろめたさがつきまとう。
 「麻雀放浪記」という小説があった。阿佐田哲也の名を世に知らしめると同時に、麻雀小説というジャンルを確立した小説だ。「吹き溜まりの雀たち」も整理して、きちんと描写すれば、現代の「麻雀放浪記」になり得る作品だとぼくは思う。
 ただ問題なのは、たとえば「向井さん」が指をつめるエピソードなどを詳しく描写していくと、文学作品としてのクオリティは上がるだろうが、この筆者の美点である爽やかさは失われてしまうような気がする。そこが難しいところで、このブログが08-16で止まっているのも、そういうハードルにぶつかったせいかもしれない。

 ブログと書籍が持つ本質的な差異が、そこにはある…ような気がする。

 ブログは青春的であり、それを書籍化するということは、大人になるということなのだ。
 時々チェックし、行く末を見守りたいブログのひとつである。

ちあらの練習帳

ちあら

ちあらの練習帳
ちあらです。どうぞよろしく。
http://tiara33.ameblo.jp/

 まず「練習帳」というタイトルがいい。
 ノートでもなくスケッチブックでもなく、練習帳である。
 この言葉には、ブログというものの本質を体感的に見抜いている気配がある。ブログとは、どんなにメジャーなブログであろうと、やはり練習帳みたいなものなのだ。
 何のための?
 自意識をみつめなおし、新しい自分に出会うための練習なのではないだろうか。「ちあらの練習帳」も、そのような意志に貫かれているように、ぼくには見える。

 「ブログ作家」・・・これだけではブログで書いてるひと全般を指せる気もする
        ものすごくおおざっぱな分類・・・

  「作家」だから[作品」があるんだろうと思うのだけども

  その作品は「ブログ」=WEB上の記録 の[作品」


  だから、日記でもルポでも小説でも絵でも詩でも
  短歌でも俳句でも川柳でもニュー落語でも
  論評でも、論説でも、写真でも、工程表でも、
  図解でも、設計図でも、プログラムでも、マイカタログでも
  家計簿でも、連絡帳でも、航海日誌でも、尋ね人でも、
  回覧板でも、地域部だよりでも、
            (・・・・・・・・ここらへんで停めます)
  WEBに乗ってれば、大儀は「ブログ」

  で。そんなブログ作家を育成する講座 「山川塾」と。

  なにをするんだろうなにをするんだろう・・ドキドキワクワク

          わー・・実験台になってみたいなぁ。。
と思った次第でありました。


 そんなふうに書いてくれているので、実験台というよりは、いっしょにブログについて考えてみるつもりで、紹介しています。
 ぼくの考えでは、あらゆる文章は「具体性→抽象性」という方向で、分類できると思います。
 人間がいて、彼が出会う「世界」というものがある。
 ぼくの周囲でこんなことが起こったんだよ、という「世界」の出来事を誰かに伝えるのが記事だ。新聞記事からブログ上の文章でも、もっとも具体的な文章がこれだ。
 少し抽象度があがると、コラムになります。
 コラムはあくまでも事実に寄り添いながら、でも私的な視点というものが必要だ。この形式は、ブログ向きかもしれません。
 その次に来るのがエッセイとか随筆とか呼ばれる文章だよね。コラムよりも抽象度、個別性が高くなります。つまり、コラムの視点が一般的であるのに比べ、エッセイになるとその視点はどこまでも「私」でしかありえない、ということだよね。
 「ちあらの練習帳」は、このエッセイにあたると思います。それも、とても良質なエッセイです。たとえば「梅干」というものを素材に、過去から現在につらなる事柄が丁寧に綴られている。
 さらに抽象性が高くなると、小説や物語が生まれます。
 今のところ、ブログが対応しきれているのは、エッセイまでだとぼくは思います。いろいろな制約から、ブログで小説を読ませるのは難しい気がします。
 ちあらさんのプロフィールには「趣味は小説づくり」とありますが、ひとつひとつのエッセイの結末を小説の結末のように鮮やかなものにするよう気を配ると、あなたの世界がもっと輝くようになると思います。

おバカなBLOGで、すみません!

トホホ
おバカなBLOGで、すみません!
http://opapi1960.ameblo.jp/
おpapiが、自信をもって、チョイスした 過去記事の数々…
きっと… あなたの お顔を ニンマリ させてしまいます!
なんちって!

 パソコンの本体やアプリのメンテを仕事にしている下「おpapi」さんが綴るギャグみたいな現実。すべて実話みたいだが、そこが面白いのだ。「過去代表作のご紹介」のコーナーがあり、まとめて読めます。大笑いできるネタも中にはあるが、クスリと笑いを誘われる系が多い。テレビで芸人がやってるネタはどぎつくてブラックなものが多く、個人的にはこのぐらいのほうが好きである。とにかく面白いので、行ってみてください。ひとつ、引用させてもらいます。
 
 ■ 第 2 話 ■ 女子社員伝説


お客様が来られて、会議室で打合せをしている時だった。
女子社員がお茶を入れて持って来てくれた。


社員: 《コン コン》
   失礼しま~す♪


   ------  みなさんにお茶を出す  ------


客A: あ、どうも …


客B: あ、いただきます …


私 : ありがとう …


社員: 失礼しました… <(_ _)> ペコリ!

          ツカッ
          ツカッ  ← 去っていく靴音
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ
          ツカッ

    《コン コン》    川゚Д゚) はッ


一同: 「……」      ㊥(゚▽゚;) え?




何を血迷ったのか、その女子社員は、
会議室のドアを出る時にも、ノックをしてしまった。

お盆を持って、ドアの前に立つと、ノックをしてしまう…
という “悲しい条件反射” を お客様の前で披露して
しまったのだ。




この女子社員は、その後、幸せな結婚をした。
















今、うちの台所で
きゅうりを切っている…


 こういうブログが継続していくとホッとするので、たいへんだと思いますが新ネタよろしく頼みます!



■よるうまれるはなし


■よるうまれるはなし 

「よるうまれるはなし」にはテーマが2つある。子犬がいろいろな動物や人間、自然とか出会ったり別れたりする「よるのこいぬ」と「本とか」だ。「よるのこいぬ」のほうは短い童話のような話がゆるやかに続いているのだが、これが秀逸である。

2005-03-01の「よるのこいぬ」を引用させていただきます。


テーマ:よるのこいぬ

茶色の子犬は夜の散歩が好きです。

だれもいないのが気に入ってます。
いじめっこの人間も野良犬もいません。

朝になるまでずっと歩いて、太陽がでてきたらぐっすり寝ます。
夜になるまでずっと寝て、月が明るくなったらてくてく歩きます。

茶色の子犬は毎晩歩くうち、ある晩すたすたと走りはじめました。

「月が低くならないようにはしる」

月が低くなり始めたらもっと速く走りました。
それでも月が低くなりはじめたらもっともっと速く走りました。

そうして茶色の子犬に永遠の夜がおとずれ、茶色の子犬は夜の王様になりました。


 この思い切りのよさはなんだろう、とぼくは思う。「茶色の子犬は夜の王様になりました」という1行の思い切りのよさ。yoruhanaさんは、決して啓蒙的ではなく、自分の心の深い場所と対話することのなかから、これらの童話を紡ぎだしているのだろうと思う。 

 

 そこが、いい。


 茶色の子犬は、いじめっこの人間も野良犬もいないから夜の散歩が好きで、だがある晩、弾けたように走り出す。月が沈まないように、つまり嫌いな昼間にならないように走るわけです。
 すると、茶色の子犬に永遠の夜がおとずれる。この表現は、どこか不吉である。だがそのネガティヴなイメージを、「夜の王様になりました」という1行がはね返している。そこに感動が生まれる。 


 毎日のように、これほどのクオリティの童話を書き続けるのはプロの作家だって困難だろうが、続けることのなかから、お話の粒が揃ってくるといいなと思います。これからも楽しみに読ませてもらいます。
 

■心が晴れる「はれ、ことば」


■心が晴れる「はれ、ことば」    中島未月さん


 コピーライター、中島未月さんのブログです。カテゴリーランク4位の人気ブログです。

 テーマに「はれ、五行歌 」というのがあり、これが人気の秘密なのではないでしょうか。


<五行歌は、字数や音数にこだわらずに5行で詠む歌のこと。短歌でもなく俳句でも
ない、新しい形式の自由な詩歌です。「はれことば」では心が晴れる
メッセージを五行歌の形式でサクっとお届けしています。>

2005年05月24日
やわらか
テーマ:はれ、五行歌
生地 

        この夢は
        やわらかだから
        手の中で
        どんなふうにも
        なれてしまう


焼き上げる前のクッキー生地はやわらかで、ほんのり甘い香りが

漂って。手の上でころころ丸めていると、わけもなく愉しい気分に

なります。

星型にしたり、動物型にしてみたり、自由自在にかたちあるものに

する作業は子どもはもちろん、大人だってウキウキするものです。

カタチにならない未来、実現していない夢も同じこと。
まだまだ未熟だからこそやわらかで、それはきっと、どんなふうに

もなれるはず。

大切なのは、夢の生地をいつもさわっていること、いろんなカタチ

を試してみることかもしれません。

本当に望むことがわからないとき、思い通りに物事が進まないとき。
それでも、自分の夢と呼べるものがあるのなら。
どんなふうにも変化できるように、 "やわらか"であることが大切。

やわらかな夢は、必ずそれぞれのかたちあるものに辿りつくと思う

のです。


放り出して、固くなってしまった夢だってそう。もういちど取り出して、

手の上であたためれば、ちゃんとやわらかくなります。

あきらめないということは、その思いをさわり続けること、願い続ける

心をいつもやわらかにしておくこと、なのかもしれません。


 ぼくはこの、やわらかだから手の中でどんなふうにもなれてしまう、という五行歌が好きだ。だが記事を読むと、それが焼き上げる前のクッキー生地だということが明かされる。あれ、なんだそういうことなのか、と一瞬思う。ところが中島未月さんは、クッキー生地とカタチにならない未来、実現していない夢も同じことなのだとつづける。なるほど。


 大切なのは、夢の生地をいつもさわっていることであり、いろんなカタチを試してみることかもしれない、と彼女は言う。
 中島未月さんは大阪在住で、夫、2男2女の6人暮らしだそうだ。4人の子供のお母さんならではの温かな視線を持ち、同時に、子供の新鮮な視点を失わないでいられるのだろう。
 うーん、クッキー食べたくなってきた。


 ぼく自身は個人的に、仏教ベースのネガティヴ・シンキングな世界観を持っており、ポジティヴ・シンキングは苦手なほうなのだが、中島未月さんの文章はすんなり素直に読めるし、うんうんと頷いてしまう。
 ご一読をおすすめします。

 なにかテーマを設定して、中島未月さんとichiさんのブログ上の対談なんかがあったら面白いだろうな、と思いました。



■風の結露


■風の結露   七井翔子さん


  七井翔子さんのブログ。「ACから派生する様々な精神疾患と対峙しながら、母との関係を修復しています。人を想う事、人を愛することの大切さと意味を模索中。・・・本が好きで、活字中毒。言葉が好き。日本語が大好き。書く事でカタルシスを得ている猫好きな35歳」とプロフィール欄にあります。

 彼女はサイトやメルマガも運営されていて、「ネット上で読むことのできる最良の言葉をつむいできた七井翔子さん」(by 山口 和宏氏)http://ha3.seikyou.ne.jp/home/Kazuhiro.Yamaguchi/Reading/20040601.htm

 と評されるほどのスーパーブロガーで、「風の結露」もカテゴリーランク14位です。
 彼女の文章は、とりわけ本について語る時に、冴え渡る。たとえば、こんな具合である。


2005年01月13日
柳美里という個人。
テーマ:作家について

(略)
それから私は、頭がテンパって精神科に通い続けるようになり、待合室で「週刊ポスト」を熱心に読み耽っている中年の男性に会った。
彼は週刊ポストの中にある読み物を熱心に読んでいた。そして、見てしまった。彼の瞳に光るものを。

猛然と興味が湧いた。
くたびれきった中年男を泣かせた小説とはなんだろう。誰だろう。人目も憚らず泣けてしまった小説を書いたのは誰だろう。

その男が診察室に吸い込まれ、椅子には週刊ポストが投げ出された。
私はそっと手に取った。そして、繰った。柳美里という文字を見つけて、軽く舌打ちする。どうせゴーストが書いてるんだろう、と鼻先で笑った。

『命』という標題。そう、大ベストセラーとなった一連のシリーズの初出を私は見たのだ。まだ単行本化される前のことだ。

気付いたら、私は泣き出してしまっていた。
連載ものであったので、断片的なフレーズしか頭に入っていない。ストーリーの流れはわからない。なのに、この言葉の痛さはなんだろう。
彼女の文章は「心から書いている」というのではない。「心そのもの」を削っている。
文章にすることで、彼女は何かを削いでいる。その心の痛みが私にダイレクトに伝わってきたのである。


後にベストセラーとなるとは知らないままその『命』という連載小説は、まさしく強烈な印象として私の脳裏に刻まれた。


 こういう書評は、どのような雑誌や新聞でも、読むことはできないだろう。まさに、本の書き手と読み手がつかみ合いの喧嘩をして血を流し、だが時には抱き合って涙を流している……という印象だ。
 

2005年04月18日
ばいばい、らもちゃん~『ロカ』
テーマ:書評[小説・エッセイ]

さっきまで、読んでいた。

読了してすぐに感想を書いたとしても、あまりにもいろんな想いに満たされて、とても〈書評〉にはならない。そんなことはわかっている。

でも、私は書き残しておかなければならない。彼の最後の作品だからだ。

この作品を読む前、私は中島らもが亡くなる一週間前に脱稿したという、本当の意味での遺作『DECO-CHIN』という作品を読み終え、泣いていた。
「こんないい作品を書くから死んじゃうんだよ。」とほろほろと泣いていた。それは、とてつもなく優しくて美しくて、恐ろしく深淵な作品だった。「遺作」という先入観がそう思わせたのではない。この作品を読んで私は、この作家を失うことによる文化的損失の大きさを実感した。
(略)


 こういう濃密な書評は、なかなか読めるものではない。
 じつは、ぼくは柳美里氏の作品も中島らも氏の作品も、まだ1冊も読んだことがない。同時代の作家の本は、あまり読まないほうなのだ。だが七井翔子さんの文章を読んで、アマゾンで注文しようと思いました。七井さん、どうもありがとう!



■SUNYA ~ from the 0 point ~

sunya


SUNYA ~ from the 0 point ~


 昨年の今頃はインドを旅していたichiさんが、月を見たり音楽を聴いたり、本を読んだりすることをきっかけに思索した事柄が述べられているブログです。これが、抜群に面白い。
 たとえば、こんな記事。


2005-03-20 20:36:50
魂は呼吸に宿る。のか?
テーマ:中心への旅

突然だけど、「魂は呼吸に宿る」という説を知った。

そして、自分なりに考えてみた。


で、まずは呼吸を考えてみた。

呼吸とは、「吸う、吐く。吸う、吐く。」と考えられがちだけど、

実は、「吐く、吸う。吐く、吸う。」の順番だ、という説を知った。

そして、自分でよく考えてみた。


じっくり、呼吸を意識して考えてみると、

吸ってから、吐くまでは、結構、呼吸を我慢できる。

でも、すべての空気を吐いてしまうと、

吸おうという気もないうちに、反射的に吸ってしまう…。

吐いたら、すぐ、吸う。吸ったら、結構、止められる。

吐いたら、吸う。吐いたら、吸う。

やっぱり、どうも、「吐く、吸う。吐く、吸う。」のような気がする。


つまり、呼吸は、「吐くことから始まる」と思われる。


じゃあ、人間が呼吸を始めるのはいつだろう?


それは、生まれる瞬間だ。


じゃあ、生まれる瞬間ってのは、いつだ?


子宮内の胎児は、生まれるとき、

母親の産道を通って、外の世界に誕生する。


子宮を出ようとする胎児は、まず、

子宮からつながる母親の産道で、思いっきり、体を絞られる。

そして、その反動で、外に出た瞬間、

口と鼻から、肺の中に、思いっきり、

初めて触れる外の空気を吸い込み、

次の瞬間、

「オンギャーーー!!!」と

命の叫びを発するって感じだろう。


そして、思い出そう、

呼吸は「吐いて、吸う」だった。


つまり呼吸が始まるのは、人間が最初に吐くのは、、、

胎児が子宮からつながる母親の産道に入る瞬間、

つまり子宮の出口で、体が絞られる瞬間だ。


このときに、人間は呼吸をはじめる。ということになる。


で、呼吸が魂に宿るとすれば、

子宮の出口を通る瞬間に、

人間には魂が宿る。ということになる。


子宮の出口。


考えてみると、これはちょうど体の中心あたりのような気もする。


そういえば、

「無は、ブラックホールであり、ビックバーンである。

無は、すべての中心であり、すべては無からはじまる。

そして、すべては、無にかえる。」なんて言葉もあった。


母親の体の中心。

世界は一人一人の人間の中にある、とすれば、

世界の中心。

その中心で、呼吸が始まる。

人間の魂が宿る。人間の命が始まる。すべてが始まる。


「無は、ブラックホールであり、ビックバーンである。

無は、すべての中心であり、すべては無からはじまる。

そして、すべては、無にかえる。」


なんだか、つじつまが合ってしまったような気がするけれど…。

不思議だなぁ。。。不思議だなぁ。。。


やっぱり、魂は呼吸に宿っている、のかなぁ?


 ichiさんが紹介している「魂は呼吸に宿っている」という説も確かに面白いが、それを「へえ、そうなんだ」ですまさずに、ここまでこだわっているところがひとつの才能なんだと思う。呼吸とは「吐く、吸う。吐く、吸う」の順番だ、というのはメディテーションの基本だよね。


 こうした考察が日々繰り替えされるブログを読むのは、楽しい。
 ただ、ブログという匿名性のせいで、たとえば素樹文生さんの『上海の西、デリー
の東』や小林紀晴さんの『アジアン・ジャパニーズ 』を読む時のような、作者の実在感が読者を否応なく巻き込んでいく、という迫力に欠けるところが惜しい。
 どこかの会社の寮に住んでるみたいで、いろいろ差し障りもあるのかもしれないけれど、もう少し情報公開というか生身の作者を知りたいと感じるのはぼく1人だけでしょうか?


 日本をアジアとして漂流している感じが、じつにいいだけに、残念な気もします。
 

■役員秘書の恋愛指南

renai



『役員秘書の恋愛指南』   rennaimodoさん


 rennaimodoさんのこのブログは、恋愛ジャンルの人気ブログというか、とても有名なブログです。まず、タイトルがいいと思います。あちこちの人気ブログともゲートが開いていて、ブログならではのコミュニケーションを感じさせます。
 役員秘書という仕事がどういうものなのか、ぼくには明瞭にはわからないけれども、これがついているだけでタイトルがグッと前にくる気がする。


 しかも記事がきわめて雑誌的に配置されていることも大きな魅力になっている。
 まず「男性の本質を知る」という表題があり


「人は千差万別。性格も嗜好も違う生き物です。

でも、不思議なことに、恋愛においては、男性の本質は共通しているのです。」


というリードまである。
 さらに記事が


【男性は面倒くさがり】

【男性は女性の嫉妬や悪口が苦手】

【男性って弱い】


といった見出しがつけられている。
このまま女性誌にできそうなぐらいです。


 というわけで、どの記事にもコメントがついています。「既婚者を好きになった時」という記事のコメントなど、真摯で切実です。
 さて、素晴らしいブログだと思いますが、たとえばこれを単行本化できるかというと、少しばかり足りないものがある。それは、ヴィジョンなのです。「役員秘書の恋愛指南」には素晴らしい各論が満載されていますが、rennaimodo.さんご自身の恋愛のヴィジョン、たとえば「灼きつくような恋ができれば死んでもいい」とか「幸せな結婚をしたい」、あるいは「恋愛中毒と言われるぐらい多くの恋愛をしたい」というような、いわば総論がない。


 もちろん、これは生き方の問題にさえ深くかかわることなので、そう簡単には決められないと思うのですが、総論、ヴィジョンが明確になればもっと素晴らしいブログになると思います。
 これはすべてのブロガー、すべての作家志望の方に言えることですが、「私にとっての」という一行を自分の作品の前につけて考えてみると、見えてくるものがあるはずです。「私にとっての、イージー・ゴーイング」とか「私にとっての、役員秘書の恋愛指南」といった具合にです。他の誰にも書けない、自分なりの「私性」というものに貫かれた時に、あなたの作品はほんとうの意味で輝きはじめるのです。

■雨と泪 ~自分だけの時に乗り遅れる

namida



『雨と泪 ~自分だけの時に乗り遅れる』   永瀬さん


著者の永瀬さんは19歳の学生で、基本的に詩のブログです。ブログの紹介文の「自分だけの時に乗り遅れる」というのが、既に詩になってます。書き綴られている詩は、とても素直で読んでいて気持ちがよい。たとえば「木偶」という詩。


木偶
誰かの素晴らしいところを目にすると
自分の無力さを感じることがある

誰かに自分の素晴らしいところを指摘されると
そんなに立派じゃないんだよって笑う

誰かの素晴らしいところを褒めると
あなたが素晴らしいんだよって褒められる

自分の良いところを知る人は
いったいどれだけいるんだろう

相手の良いところを知る人は
どれだけ相手に伝えれるだろう

良いところを持つ人たちは
どうすれば素直になれるだろう

世界中の人たちは
この先どうすればいいんだろう


 青春というものの一瞬のキラメキが、この詩には感じられる。具体的に、それがどこに感じられるか? それは、最後の2行なんだよね。「誰かの素晴らしいところを目にすると/自分の無力さを感じることがある」という私的な小さな世界が、一気に「世界中の人たちは/この先どうすればいいんだろう」という広がりにダイブする。それが、青春というものの特権なのだと思います。


 「部屋」という詩も、最後のパラグラフ「外の穏やかな空気と/内の篭もった空気を/混ぜる 惑わす」で一気に拡大する。
 こうした広い世界を見通すイマジネーションがあるからこそ、「自分だけの時に乗り遅れる」という焦燥感も生まれるのだと思います。しかし、これらの詩から伺われる、「柔らかな心」があれば、焦る必要などまったくない。

 テーマに「ショートストーリー」「小説」がある。ショートストーリーは洒脱な出来映えで、才能を感じさせます。「詩」「ショートストーリー」「小説」と文章が長くなるにしたがって、イマジネーションが現実にぶつかり、いわゆるリアリティというものを獲得していくのかもしれない、という気がします。
 しかし、「詩」のままで、つまり当分は青春のキラメキのなかで呼吸していてもいいのではないか、とぼくは思うのです。誰でもすぐに「大人」になってしまうものだから。