蘇東坡は言った─

「あなたも水と月の関係をご存知でしょう。
水はこのようにたゆみなく流れてゆきますが、
行ってしまって無くなるのではありません。
月は満ち欠けしますが、
消え去るでもなく大きくなるでもありません」
 
 
 
 
 
 
いつの時代も常に新しい『赤壁賦』の世界へ。
 
 
 
『赤壁賦(せきへきふ)は、
北宋代の政治家にして三絶(詩書画)にすぐれた
蘇東坡(そとうば/1036-1101)が、黄州(こうしゅう/
現在の湖北省黄岡市)へ流された時に作った詩です。
 
今から1000年近くも前の作品。なのに、少しも
色褪せていない。
人の本質はそう簡単に変わらないんだなぁ…と、
詩を読むたび痛切に感じます。
 
いつの世も愚かな争いによって多くの命が犠牲に
なり、大自然の脅威には為す術がなく、社会では
理不尽がまかり通り、心は儲けの計算に疲弊し、
不自由を感じて自由を求め、儚い一生を憂い、
気の合う友と茶や酒に酔っては、
明月を望み思いを馳せて ・ ・ ・
 
1000年前に蘇東坡が見た月と、
いま私たちが見ている月は同じ月。そう思うと、
どこか不思議な気持ちになりますね。
 


さてこれから『赤壁賦』を読んでまいりますが、
はじめに、蘇東坡という人物、その生涯について
簡単にお話させてください。
 
 
蘇東坡は、
(び)州眉山(びざん)(現在の四川省眉山市東坡区)
出身です。父の蘇洵(そじゅん)、弟の蘇轍(そてつ)
共に「三蘇」と称され、三人とも唐宋八大家
数えられます。
 
22歳の時に弟の蘇轍とともに科挙に及第。進士
となり、その後は地方官を歴任。一時は中央に
入りますが、その当時、政治改革を推進していた
王安石(おうあんせき/1021-1086)の新法に反対し
つづけたため左遷。
ここから蘇東坡の波乱に満ちた人生が続きます。
 
王安石も宋代を代表する詩人で、唐宋八大家の
ひとりです。
蘇東坡との関係は、政治的には新法派と旧法派で
生涯において対立関係にありましたが、
一個人としては互いに詩才を認め、尊敬し合って
いました。
 
 
44歳の時、
国政誹謗の罪を着せられ投獄、厳しい取り調べを
受けたのち、やがて恩赦によって死を免れ黄州に
流刑となります。
 
黄州での暮らしは困窮を極めましたが、蘇東坡は
人には恵まれていたようです。
旧知の友人馬正卿(ばせいけい)が彼のために、
黄州郊外にちいさな土地を借りてくれることに。
 
蘇東坡は住まいの臨皐亭(りんこうてい)から歩いて
通える距離にあるその土地を「東坡」と名付け、
畑を開墾します。
しかし土地は荒れ放題。がれきや煉瓦が散乱し、
また日照りつづきだったため、土を耕すことは
けっして容易ではありませんでした。
 
畑では野菜のほか、薬用(漢方)に用いられる植物
なども多く育てていたようです。
 


“茶は唐代に興り、宋代に盛んになる”。
養生(ようじょう)に人一倍気を遣っていた蘇東坡は
またお茶好きとしても知られ、茶を詠んだ詩も
いくつか残っています。
 
もともと、茶は薬としてはじまり、やがて飲料
としてだけでなく、喫茶を楽しむ嗜好品となって
いきました。茶を“一服する”と言いますね。
 
酒も嗜んだ蘇東坡ですが、彼の場合はどちらかと
いうと茶のほうが性(しょう)に合っていたように
私は思います。
酒は酩酊、茶は覚醒。書を読むお供に茶は欠かせ
ません。茶を一服してはあともう一頁めくり、
思索の旅に耽ったのでしょう。夜更かしをして…
酒ではそうはいきませんから。
 
 
あふれる才知を日々発揮していた蘇東坡。
好奇心旺盛な彼には面白い逸話がたくさんあり
ますよ。
 
毎日ライチを300個食べたり、仙薬を練ったり、
新しい料理を創作したり…
なかでも、蘇東坡の名が由来となっている
「東坡肉(トンポーロウ)」は有名ですね。
いわゆる“豚の角煮”です。
 


話は黄州での暮らしに戻りますが、
やがて、東坡の中に「雪堂(せつどう)と称する
小屋を蘇東坡自ら建て、そこで寝泊まりをしては
晴耕雨読の時を過ごすようになります。が、
蘇東坡はただのんびりと暮らしていたわけでは
ありません。志は失っておらず、常に向上心を
持って生き抜いていました。
 
 
この「東坡(とうば)」という名称は、
蘇東坡とおなじく流謫の身となった昔の時代の
先輩格白居易(はくきょい/772-846)が自らの土地に
つけた名でもあります。
蘇東坡は自分が敬慕する白居易にあやかって、
その土地を東坡と名付けたのでした。さらには、
この頃から自身を「東坡居士」と称するように
なります。
 
蘇東坡は名が軾(しょく)なので、蘇軾(そしょく)
とも呼ばれますが、やはり一般的には彼が黄州で
号した「東坡」にちなんで、「蘇東坡」の愛称で
呼ばれることが多いです。
私も蘇東坡と呼ばせていただきます。
 
 
蘇東坡が「居士(こじ)」を称したことから、
彼が仏教に帰依していたことが窺えます。
(あくまで“学問のひとつ”として)
居士とは「在家で修行している人」の意味で、
白居易も蘇東坡も禅を熱心に学んでいます。
 
ちなみに白居易は「香山居士」と号しています。
彼は、陶淵明(とうえんめい/365-427)、李白(りはく/
701-762)に次ぐ大の酒好きとして知られ、また、
ひとり山奥に入り、山から涌き出る清らかな水を
汲み、石の上に坐し茶を楽しむほどの茶の愛好家
でもありました。
唐代の詩人で最も多くの茶詩を作っていますよ。
 
 
 
黄州での生活は5年ほどつづきましたが、
そこでの過酷な日々が、結果として、
『赤壁賦』を書くターニングポイントになったの
でした。
 
 
 
 
 
 
1085年、神宗(しんそう)の崩御にともない、幼い
哲宗(てつそう)が帝位に立つと、宣仁(せんじん)皇后
が太皇太后となり、代わって摂政政治を行なって
いきます。
旧法派が回復していくなか、蘇東坡は中央に戻さ
れますが、またも政争に巻き込まれ…
1089年に杭州(こうしゅう/浙江省)に左遷。
 
杭州では西湖(せいこ)の整備に大きく貢献します。
西湖は唐の白居易がこよなく愛し、湖の治水の
ために堤(後に「白堤(はくてい)」と呼ばれる)を
修復したことでも知られていました。
蘇東坡は憧憬していた白居易に倣い、自身も堤を
造営したのです。

蘇東坡が詠った西湖に関連する詩は400首以上に
のぼります。彼が西湖に特別な愛情を注いでいた
ことがわかりますね。
 
 
全長2.8キロの長い堤防(橋)は、彼の名にちなみ
「蘇堤(そてい)」と呼ばれ親しまれてきました。
現在でも「西湖十景」と呼ばれる景観を愛でに
多くの観光客が訪れていますよ。
 
また、堤を造っていただいたお礼にと、土地の
人々から豚肉と紹興酒をもらった蘇東坡は、
それを煮込み料理にして皆に振る舞いました。
絶賛した人たちがこの料理につけた名前が、
「東坡肉(トンポーロウ)」です。
 
 
 
1093年、
旧法派寄りであった宣仁太后が死去すると、息子
哲宗の新政が始まり、新法派が政権を握ったこと
から旧法派への厳しい弾圧が開始されます。
 
1094年、
59歳の時に恵州(けいしゅう/広東省)に流刑。
1097年には海南島へと流されています。
 
1100年、哲宗が崩御して徽宗(きそう)が即位する
と、新法・旧法の争いをおさめる動きが現れ、
ようやく大陸への帰還が許された蘇東坡でした
が、
1101年、都に向かう途中、
常州(じょうしゅう/江蘇省南部)で病に倒れ死去。
66歳でした──
 
 
 
「蘇東坡 前後赤壁賦」 和漢名家習字本大成  第29巻
昭和9年  平凡社
 
 
 
「前後赤壁賦  山陽頼先生書」 
  
 
 
 
『赤壁賦』は、日本では江戸時代に流行します。
 
『赤壁賦』を題した絵画も数多く描かれていて、
また賦そのものは、書(道)の手本として流布し、
さまざまな人物がこの賦を書写しています。

現在、蘇東坡の真跡(とされる)「前赤壁賦」が、
国立故宮博物院に所蔵されています。
(縦23.9×横258cm、紙本巻子)
「前赤壁賦」は、日本の高校の書道の教科書にも
採用されました。
 

 
ところで赤壁(せきへき)とは、
三国志に出てくる戦場として名高い長江流域の
名所のことです。
孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍(数万)が
魏の曹操(そうそう)の軍(80万とも)と水上戦を繰り
広げた歴史上の舞台として知られています。
 
赤壁の古戦場と伝えられている場所は、長江と
漢江(漢水)沿いに数ヶ所存在していて、
もっとも有力なのが、現在の湖北省赤壁市西南の
長江南岸に位置する赤壁山です。
 
 
赤壁の戦い(208年)から約800年後の1082年、
旧暦7月16日の夜、
黄州に流されてから3年目の秋を迎えた蘇東坡は
客(友)と共に小舟に乗り、古戦場を訪れました。
そこでは、
天と水と自分との境界線が無くなり、風に誘われ
月光の中をのぼってゆく心地をうたっています。
 
そして、それから3ヶ月後の10月15日の夜、
蘇東坡は再び友と赤壁へと舟遊びに出かけます。
 
同じ場所なのにまったくちがって見える景色。
沸き立つ新たな感情。
自然の変化と自分の感情の変化。自然界は常に
変化していて、自分の感情も常に変化している。
同じ状況下でも日々変化していることを悟り知り
ます。
 
 
 
実は、蘇東坡が遊んだ赤壁は、実際の赤壁では
ありません。
蘇東坡が訪れたのは湖北省黄岡(こうこう)市黄州区
西北の長江北岸の赤鼻(せきび)山であり、以来、
「東坡赤壁(別名文赤壁)と呼ばれる場所です。

蘇東坡より200年ほど前の晩唐の時代、
黄州刺史に赴任した杜牧(とぼく/803-853)が赤壁を
訪れ『赤壁』と題した七言詩を詠んでいますが、
彼が訪れた場所も赤鼻山だったとされています。

この地は実際の古戦場よりずっと下流にあったの
ですが、杜牧も蘇東坡もこうした歴史的な事情は
十分わかったうえで、そこがあたかも本当の赤壁
であるかの如くに装い、詩賦を残しました。
もちろん蘇東坡は杜牧の詩に学んでいます。

彼らが訪れた“赤壁”は、
今では実際の古戦場よりも有名な場所になって
しまいました。

 
 
西(過去=古戦場の方)から東(現在=蘇東坡がいる
場所)へと流れゆく長江。
 
もっと言えば、古戦場よりもさらに西から流れる
水は、(徴兵され東へと旅立った)夫たちの帰りを
待ち望む妻たちの涙であり、
何万という人たち流した枯れることのない涙。
その涙が、どこまでもどこまでも流れてゆく。
 
尽きることなく流れる水は、永遠なる時の流れ。
 
 
“永遠なる時の流れ”に舟を浮かべて、
月光の中をのぼってゆく ・ ・ ・
 
彼にとって“場所”は大した問題ではなかったので
しょう。
(実際の古戦場は家から歩いてすぐに行ける距離
ではなかったことも考慮)
 
 
 
 
 
 
『赤壁賦』は2つの詩によって構成されていて、
ひとつは7月16日の夜に訪れた時のことを記した
「前赤壁賦」、もうひとつは、10月15日の夜に
訪れた時のことを記した「後赤壁賦」です。
単に『赤壁賦』と言う場合、この両者の作品を
さします。
(ふ)とは古代中国の韻文における文体の一つ。
 
 
作中に出てくる「蘇氏」は蘇東坡自身のことで、
第三者的に客観化した呼び方。
また「客」とありますが、そのうちのひとりは
友の楊世昌(ようせいしょう)とされています。
 
 
 
 蘇東坡は、「四書五経」をはじめ、『老子』、
『荘子』、『楚辞』、その他、詩文集、思想書、
歴史書、地理書、先人の詩歌など、じつに多くの
思想・哲学、古典文学を学んでいます。
『赤壁賦』にはそれら古典から引用した言葉や、
意識したであろう表現が随所にみられます。
 
よって語釈や出典をすべて記し出すと膨大な量に
なってしまいますので、書き下し文ともに一部を
除き割愛させていただくことにしました。
(記事の文字数にも制限があり…)
ここでは原文と訳文のみ記しておきますね。
意訳や解釈はご参考までに。
 
なお原文は『文章軌範 (正篇) 下』より引用。
訳文は同書に加えて、『古文真宝 (後集)』
『蘇東坡全詩集』『蘇東坡詩選』より一部引用
参考にさせていただきました。
 
 
 
 
 
 
事実と虚構が溶け合う『赤壁賦』。
目に見える世界と目に見えない世界の両面から、
みていく必要があります。
 
とはいえ、漢文は事細やかな説明がないため、
漢字から感じ取っていかなければなりません。
一節読むごとに考え、想像し、また考えて。
 

漢文の勉強が目的ではありません。
蘇東坡の詩情にふれることが第一です。

また、
詩というのは人を介して変化していくもの。
赤壁の情景や蘇東坡の心情をイメージしながら、
心の中に“景色”を描いていってください。
読むたびに“景色”が変わりますよ。

心を愛でる時間、その“きっかけ”になればと。


蘇東坡というひとりの人間、人生観(生きかた)
心の彷徨いと感情の機微、そして、
変わらぬ人の本質、人間の存在、命の儚さ。
 
心を旅してみたい。
 
 
 
 
 
 
「前赤壁賦」

壬戌之秋 七月既望
蘇子與客泛舟 遊於赤壁之下
清風徐来 水波不興
擧酒屬客 
誦明月之詩
歌窈窕之章


壬戌(1082年)の秋、七月十六日、
私は客とともに舟を浮かべて、赤壁に遊んだ。
清風がゆるやかに川面をわたり、長江は波立つ
ことなく流れてゆく。
(心地いい風を浴びながら、
鏡のような水面をスー・・・っと、滑るように
ゆっくりとすすんでゆく)
酒を手にとって客にすすめ、
『明月の詩』を口ずさみ、
『窈窕(ようちょう)の章』を歌う。


 
 
少焉 月出於東山之上
徘徊於斗牛之間
白露横江 水光接天
縦一葦之所如
凌萬頃之茫然
浩浩乎如馮虚御風
而不知其所止
飄飄乎如遺世獨立
羽化而登仙


しばらく待っていると、月が東の山の上に出て、
斗宿と牛宿の間を徘徊しはじめた。
白露のような光が長江一面にひろがって、
空と水との境もわからない。
(輝く水面はそのまま天に続いている)
葦の一葉(一本の葦のような小舟)に身を寄せ、
流れゆくままに光る水面を渡ってゆく。
たとえるなら無限の空間を風に乗ってさまよい、飄々と飛翔し、俗世を忘れて自由の身となり、
羽の生えた仙人となって天上界にのぼってゆく
感覚だ。

 
 
 
於是飲酒楽甚
扣舷而歌之
歌曰
桂棹兮蘭槳
撃空明兮泝流光
渺渺兮予懷
望美人兮天一方
 

そこで、酒を飲んで楽しさは高まり、
船べりをたたいて拍子をとりながら歌った。
その歌は──
「桂の棹(さお)、蘭の槳(かい)(水面に映る月影に
桂の棹をさし、蘭の槳をとって)
ふりそそぐ月光を漕ぎのぼってゆく。
果てしなくひろがる私の思い、美しい人(月)
空の彼方に思いやる」と。

 
 
 
客有吹洞簫者
倚歌而和之
其聲鳴鳴然
如怨如慕 如泣如訴
餘音嫋嫋 不絶如縷
舞幽壑之潜蛟
泣孤舟之嫠婦


その時、客のひとりが洞簫(どうしょう)を吹いて
私の歌に合わせた。
その音色は声を上げるように響いて、
怨むかのように、慕うかのように、
泣いているかのように、訴えているかのように。
余韻は細く長くのこり、
糸すじのようにいつまでも続く ・ ・ ・ ・ ・ 
その音は、深い谷間に潜む蛟(みずち)を舞わせ、
一艘の小舟に身を託す未亡人に涙を流させた。
 
 
 
 
蘇子愀然 正襟危坐而問客曰
何爲其然也
客曰
月明星稀 烏鵲南飛
此非曹孟德之詩乎
西望夏口 東望武昌
山川相繆 鬱乎蒼蒼
此非孟德之困於周郞者乎
方其破荊州 下江陵
順流而東也
舳艫千里 旌旗蔽空
釃酒臨江 橫槊賦詩
固一世之雄也
而今安在哉


私は表情をかたくし姿勢を整えてから、
坐り直して客に尋ねた。
「どうして(あなたの奏でる洞簫の音色は)
これほどまで悲しいのですか」
 
客は答えた、
「『月は明るく、星はまばら。カササギは南へ
飛んでゆく』とは曹孟德(曹操)の詩ではなかった
ですか。
『西に夏口(かこう)を望み、東に武昌(ぶしょう)
望めば、山と川はもつれあい、草木は盛んに
青々と茂り』とは、孟德(曹操)が周郞(周瑜)
苦しめられた地ではなかったですか。
その孟德は荊州を破り、江陵に下り、そこから
長江の流れにのって東に軍を進めたとき、
軍船は千里もつらなり、艦隊の旗は空を覆って
はためいたでありましょう。
孟徳は酒を用意して戦いに臨み(長江の水神に
戦勝を祈念し)、槊(ほこ)を横たえながら詩を吟じ
た、これぞまさに一代の英雄でありましょう。
しかしながら、
その人とて今はどこにいるのやら──
 
(これほど悲しい場所だというのに、
今はなんにも無い・・・)

 
 
  
況吾與子 
漁樵於江渚之上
侶魚蝦而友麋鹿
駕一葉之扁舟
擧匏樽以相屬
寄蜉蝣於天地
眇滄海之一粟
哀吾生之須臾
羨長江之無窮
挾飛仙以遨遊
抱明月而長終
知不可乎驟得
託遺響於悲風


ましてや私とあなたは、川の岸辺で魚をとったり
薪をとったり、
(私たちはここ長江のほとりで気ままに語らう、
漁師と木こりのようなもの)
私は魚や蝦(えび)を伴侶とし、あなたは鹿たちを
友とする身の上です。
一ひらの小舟に身をのせて、酒壺をあげて酌み
かわしながら、カゲロウのような儚い命を、
広大無辺の天地の間にしばしあずけている、
それはまるで果てしない大海原に浮かぶ一粒の
粟のような、小さな存在でしかありません。
わが人生が束の間のものであることが悲しく、
長江の水の流れが永遠に尽きることのないのが
うらやましくてなりません。
そこで、天翔ける仙人とつれ立って遊び、
明月を抱えたまま天上で永遠の生命を得たいと
思うのですが・・・
しかしそれは到底できることではなく・・・
わかっているから、せめて、この尽きぬ悲哀を
洞簫の余音にのせて、悲しみをそそる秋の風に
託したのです」 と。
 
 
 
 
蘇子曰
客亦知夫水與月乎
逝者如斯 
而未嘗往也
盈虚者如彼
而卒莫消長也
蓋将自其變者而觀之
則天地曾不能以一瞬
自其不變者而觀之
則物與我 皆無盡也
而又何羨乎

 
 私は言った、
「あなたも水と月の関係をご存知でしょう。
水はこのようにたゆみなく流れてゆきますが、
行ってしまって無くなるのではありません。
月は満ち欠けしますが、
消え去るでもなく大きくなるでもありません。
そもそも変化するという視点から見れば、
天地は一瞬たりとも止まってはいません。
(一秒たりとも同じ水はないし、一瞬たりとも
同じ月はない)
また変化しないという視点から見れば、
万物も私もすべて尽きはてることがないのです。
(私たちの命は儚く、あっという間に終わって
しまいます。しかし、終わらないという視点で
見れば、私たちは時を忘れてずっとここにいる
ことができますよ)
とすれば、何を羨むことがありましょう──

 
 

且夫天地之閒 物各有主
苟非吾之所有
雖一毫而莫取
惟江上之淸風 與山閒之明月
耳得之而爲聲 目遇之而成色
取之無禁 用之不竭
是造物者之無盡藏也
而吾與子之所共適


ところで、天地の間にある物すべてには、
それぞれに所有者がいます。
かりにも自分の物でなければ、毛一本といえども
取ってはなりません。
ただ、江上をわたる清風と山あいにのぼった明月
だけは、耳に聞いてその音色を喜び、目に見て
その姿の美しさを楽しむことができます。
(風と月の光はだれのものでもありません。
これらはけっして手に入れられるものではない。
だから) 
これを自分のものにしてもとがめはなく、いくら
使っても無くなることはありません。これこそ、
造物者が与えてくれた無尽蔵の蓄えなのです。
だからこうして、私とあなたが共に楽しむことが
できるのです」

 
 
 
客喜而笑 洗盞更酌
肴核既盡 杯盤狼藉
相與枕藉乎舟中
不知東方之既白


これを聞いて客は喜んで笑い、杯を洗って、
互いに酒を酌みかわした。
そのうち酒のあても尽きて、杯や皿が散らかる
なか、共に寄りかかりながら舟の中で寝入って
しまい、
東の空が白んできたのも気が付かなかった。
 

  
 
 

一回読んだだけでは
なかなかしっくりこないのではないでしょうか。

既述したように、蘇東坡は古典を学んだ上に表現
しています。ですが、言っていることはけっして
理解できない内容ではないはずです。
物質万能社会に生きる現代人には、情緒あふれる
蘇東坡の詩はむしろ新鮮に感じられるのでは?


単純かつ複雑な人の感情。

さらに深くみていきましょう。




清風徐来    清風(せいふう)徐(おもむろ)に来たりて、
水波不興    水波(すいは)興(おこ)らず。
擧酒屬客    酒を挙げて客に属(すす)め、
誦明月之詩    明月の詩』を誦(しょう)し、
歌窈窕之章    『窈窕(ようちょう)の章』を歌う。

清風がゆるやかに川面をわたり、
長江は波立つことなく流れてゆく。
酒を手にとって客にすすめ、
『明月の詩』を口ずさみ、
『窈窕の章』を歌う。


蘇東坡のいう『明月の詩』とは、
『詩経』国風・陳風(ちんぷう)
「月出(げつしゅつ)のこと。

煌々と輝く明月と美しい女性の姿に惹かれてゆく
男心を歌ったものです。


『窈窕の章』とは、
『詩経』国風・周南(しゅうなん)
「関雎(かんしょ)のこと。

美しいつれあいを探し求め、迎え入れようとする
男心を歌ったものです。


「窈窕(ようちょう)」は、美しく上品で奥ゆかしい
こと。また、そのさま。性別に関係なく用いられ
ます。

「関雎(かんしょ)」は、歌の第一句に出てくる
「関関雎鳩(かんかんしょきゅう)」の略で、
クワッ、クワッと鳴くミサゴ(鶚)の意。
「雎鳩」は、鳥「ミサゴ」の異名です。
「関関」は、その鳴き声、鳴く声の和らぐさま。

四字熟語「関雎之化(かんしょのか)」─
夫婦仲がよく、家庭がうまく治まることのたとえ
─としても知られます。


以上、
『明月の詩』も『窈窕の章』も『詩経』に出て
くる詩(歌謡)だということがわかりました。
ではなぜ、これらの古歌が、そのとき蘇東坡の
口からこぼれ出たのでしょうか。

察するに、蘇東坡は、
美しい月の出現を待つ自分の心模様をたとえて、
そして、明月を“清風のつれあい”に見立てて、
清風が月を探し求め今にも迎え入れようとして
いる状態に置き換えているのでしょう。
清風と明月は、言わば“パートナー”のような関係
ですから。

そして目に見えぬ清風と目に見える明月が出逢う
その瞬間を、
蘇東坡自身も“つれあい”として待望しています。

“あとは月が出てきてくれれば完璧なのだが…”


このように、「前赤壁賦」は河面に浮かべた舟で
月を待つところから始まります。




少焉 月出於東山之上
少焉(しばらく)にして、月東山(とうざん)の上に出(い)で、

徘徊於斗牛之間

斗牛(とぎゅう)の間(かん)に徘徊(はいかい)す。


しばらく待っていると、月が東の山の上に出て、
斗宿と牛宿の間を徘徊しはじめた。


「斗牛之間(とぎゅうのかん)とは東南の空。
「斗」は南斗星で斗宿のこと。いて座の一部。
「牛」は牽牛星で牛宿のこと。やぎ座の一部。

「宿(しゅく)」は、古代中国の天文学において、
天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。
そのうち斗と牛は隣り合わせの星宿になります。


蘇東坡が舟から見上げた空、その方角には昔、
(ご)と越(えつ)の国が存在していました。

呉と越と言えば、
『孫子(そんし)に出てくる故事がもとになった
故事成語に「呉越同舟」があります。
「呉と越は宿敵同士で長い間争っていたが、
その仇(かたき)同士の両国人がたまたま同じ舟に
乗り合わせたところ、暴風に遭い舟が沈みそうに
なった。すると、普段の恨みも忘れて互いに助け
合った」と孫子がたとえたものです。


紀元前の春秋戦国時代に起きた呉越戦争、
そして三国時代の赤壁の戦い。

絶えぬ争い。
時代の変遷を空の上から見つづけてきた月。


月の光は暗闇を晴らし、どの国を選ぶでもなく、
分け隔てなく地上を照らし出す。
国がちがっても、時代がちがっても、
見ている月は同じ月。
曇り空でも、どしゃ降りの嵐でも、
その雲の向こうには、いつもの月がある。


その月が斗宿と牛宿の間を徘徊しはじめた…

おそらくこれは、実際に月が両星の間へと動いた
わけではなく、蘇東坡は星(東の空)を見ながら、
かつての歴史に思いを巡らせていたのでしょう。

天文学者の計算によると、この夜の月は斗牛の
辺りには昇らなかったそうです。だから蘇東坡が
星座を見間違えたのでないとすれば、わざわざ
「斗牛」と言ったのは、
古代の占星術でこの二つの宿が、地上では呉越に
相当するため、次に出てくる呉の周郞(周瑜)への
連想を引きだすためではないかと、
『文章軌範 (正篇) 下』には解説されていました。



そして、
広大な河の上にぽつんと浮かぶいっそうの小舟。
蘇東坡は“一本の葦の葉”と形容しています。
 
それは流れにゆだねるしかない、
かよわく、不安で、危険な状態ではあるけれど、
それが今の自分のおかれた状況であることを示唆
しています。(ありのままの姿)

見方を変えれば、
“自然と同化している状態”とも言えますね。
(流れにしたがった生きかた)
 
 
“行き先”が決まっていれば不安は無いのかもしれ
ません。けれども蘇東坡は、舟に乗って河面に
出てみたものの、
“どこへ行きたいというわけではない”。
 
だから、流れにまかす。
 
それは彼自身の“生きかた”を言っていて…
 
 
水の流れは、時の流れ。
自分の力ではどうしようもない波乱万丈な人生を
歩んできた蘇東坡。だからこそ、
“今日は流れにまかそう”と、咄嗟に思えた。
 
 
 
ちいさな舟に身をあずけて。
風に乗って、水の流れにしたがって。
 
空と水との境もわからぬまま、ふりそそぐ月光の
中をゆっくりとのぼってゆく ・ ・ ・
 

社会のさまざまな拘束、現世から解き放たれた
(かのような)“解放感”。
 
“不安と同じぶんだけ感じられる解放感”を、
蘇東坡は、「羽化登仙(うかとうせん)」、すなわち
俗世を離れて(忘れて)自由の身となり、
羽の生えた仙人となって天上界に昇ってゆく感覚
とたとえ、快活にうたっています。
 

 
月を見ているようで、
見ていたのは“自分の奥にあるもの”だった──
 
 
渺渺兮予懷
渺渺(びょうびょう)たり予(わ)が懐(おも)い
 
望美人兮天一方
美人を天の一方に望む
 
果てしなくひろがる私の思い、
美しい人を空の彼方に思いやる。

 
この一節は、
今の、惨めで哀れなすがたの自分が、
遠い月の明かりの向こうに、
“理想の生きかた”、“理想の自分”を望んでいる。
といったようなニュアンスでしょうか。
 
「美人」は、ここでは「月」を指しますが、
ここで言う「美人」は、ビジュアル的(表面的)な
意味での美しい人でなく、むしろ内面的なもの。
 
明月は蘇東坡の想い描く“理想”の投影であり、
“そうありたいなぁ”と、
月を観て理想と現実の狭間で煩悶しているように
私は感じます。
 
 
 
 
 
 
「客有吹洞簫者」
客(かく)に洞簫(どうしょう)を吹く者有り
 
客の中に洞簫を吹く者がいた

とありますが、
この“洞簫を吹いた者”は、蘇東坡とは同郷の道士
楊世昌(ようせいしょう)だとされています。
あくまで「舟で居合わせた客のひとり」として
作中に登場させています。
 
 
洞簫(どうしょう)は尺八に似た縦笛です。
その音色は、“音楽を聴く”というよりは、
笛の音が、波の音、風の音、舟を漕ぐ音と合わ
さりひとつになっていくようなイメージ。
人間の側が自然の音に合わせていく感覚です。
 
(きん)もそうですが、基本的に文人たちは、
人に聴かせるために演奏することを好みません。
自分が心地よく過ごすために楽器を奏でます。
 
悲しげな音色は、奏者の心の状態。
 
 
もしかしたら、
「一艘の小舟に身を託す未亡人に涙を流させた」
で言われる「未亡人」は、舟に乗り合わせた客の
ひとりではなく、
戦で夫を亡くした妻たちの、いまもさ迷う情念や
霊魂なのかもしれませんね。
 
蘇東坡が「嫠婦(りふ)」と言っていることからも、
意図して詩中に配置させていると思われます。
 
「嫠婦」はこの一節にしか登場しません。
もちろん何らかの事情で伴侶に先立たれた女性が
悲しみに浸りに、たまたま蘇東坡が乗る舟に同乗
したとみるほうが自然ですが…
あまりそこに執着する必要はないでしょう。
 
 
酒を飲んで楽しくなり、気分よく歌っていたら、
突然鳴り響いてきた洞簫の音色。

悲しくて仕方のないその笛の音(ね)は、
舟に乗ってご機嫌に過ごしていた蘇東坡を、
一気に悲しい気持ちへと導いた ・ ・ ・
 
陽から陰へ、心が急変します。
(“楽しい”と“悲しい”は背中合わせ)


 
洞簫を吹いた客の言葉にこうあります。
 
況吾與子 
漁樵於江渚之上
侶魚蝦而友麋鹿
駕一葉之扁舟
擧匏樽以相屬
寄蜉蝣於天地

眇滄海之一粟
 
ましてや私とあなたは、川の岸辺で魚をとったり
薪をとったり、
(私たちはここ長江のほとりで気ままに語らう、
漁師と木こりのようなもの)
私は魚や蝦を伴侶とし、あなたは鹿たちを友と
する身の上です。
一ひらの小舟に身をのせて、酒壺をあげて酌み
かわしながら、カゲロウのような儚い命を、
広大無辺の天地の間にしばしあずけている、
それはまるで果てしない大海原に浮かぶ一粒の
粟のような、小さな存在でしかありません。

 
 
「漁樵(ぎょしょう)」は漁師と樵(きこり)のことで、
両者は塵網とかかわりなく、自然に身をゆだねて
暮らす“理想の生き方”の比喩です。
 
(あくまで心の置き所という意味で)
社会生活を拒絶して暮らしているということは、
それはつまり、
“社会”に存在しない(名も無き存在である)こと
客は強調したかったのでしょう。
 
 
そしてこの一句、
 
「眇滄海之一粟」
眇(びょう)たる滄海(そうかい)の一粟(いちぞく)なるをや
 
は、故事成悟「滄海の一粟」の出典となっている
言葉で、現代でも用いられます。
 
 
「眇」は、果てしなく広がるさま。
「滄海」は、あおあおとした広い海。大海原。
「一粟」は、一粒の粟(あわ)の実。転じて極めて
小さい物のたとえ。
 
天地の永遠にして広大なのに比べて、
人間の存在はきわめて小さく、
大海に浮かぶ一粒の粟のようなもの。
 
“大自然や時の流れに比べて、人生はあまりにも
儚い”  …と。

 
 
“ほんのつかの間である一生”を嘆き悲しむ客に、
蘇東坡は言います。
 
自然を羨むのではなく、また、
何万という命が失われたこの深い悲しみの地で、
そうした歴史的な出来事に想いを馳せながらも、
(覇を競い赤壁で激戦を繰り広げた魏の曹操や
呉の周瑜といったかつての英雄も、私のような
流人も、大自然の大きな流れの中では限りある
命しかもち得ない“ちっぽけな存在”…  しかし)

(いまの自身の不遇な身の上も踏まえて)
それをただ悲しむのではなく、
“いまこの時を楽しみましょうよ”。
 

陰から陽へ。
蘇東坡は自ら心の向きを転換させます。
 
「楽しむ」のも「悲しむ」のも、極論を言えば
瞬間瞬間の自分の心の選択次第。

 
 
同じ月を見ても、
人それぞれ想うことはあるだろうけれど…

私たちは楽しもうよ。
 

江上をわたる清風と山あいにのぼった明月だけは
耳に聞いてその音色を喜び、目に見てその姿の
美しさを楽しむことができる。
 
だれのものでもないそれらを独占させてもらって
いるのだから、
このひとときくらいは楽しもうよ。
 
 


 

 
世の中と逆行している時の流れの中で ・ ・ ・
 
 
ふつうなら、夜明けとともに目が覚めて、
新しい一日が始まります。
が、蘇東坡はそうじゃない。
夜明けなんて来てほしくないのです。
 
きっと、“夜明けを忘れられた特別なひととき”
だったのでしょうね。


或いは、
“もうしばらくここにいたかった”、
“願わくは夜明けなんて忘れたかった”といった
蘇東坡の願望や無常観が込められているのかも
しれません。
 
もしかしたら、実際は、
東の空が白み始めたことに気づいてしまった?

明日を忘れて、楽しむことに徹したがために、
いつもより早く朝が来てしまい…
 

楽しい時間はあっという間。

時の流れのはやさに、
蘇東坡自身、内心はただただ嘆くばかりだった…
 
嗚呼──
 

 
 
人は人に振り回され、
時間というものに拘束され、
曖昧な常識やおかしなルールに縛られて。
 
人間ほど“不自然ないきもの”はいません。
不自然ゆえに自然を尊び、
知足を忘れ「永遠」を求めるのでしょうか。
 
 
“大きな流れ”の中では、
私たちの一生はカゲロウのように儚く、それは、
火打ち石から飛び出る一瞬の火花の中に身を置く
ようなもの。
 
しかしほんとうは、命に長いも短いも無く、
“いまこの一瞬”の中にすべてがあって。
 
相対的な見方(長い・短い)が無くなれば、
あとは天命にまかすのみ。
 
 
 
生きることを忘れているときは、
死ぬことを忘れているとき。
死を意識してはじめて生を意識する。
 
不自由を感じたぶんだけ、自由を感じられて。
 
 
“無になろう”では無になれないように、
自由・不自由を忘れている時こそ、
真の自由に戻っている時なのかもしれませんね。
 
 
 
 
 
 
光速にめぐる陰陽。
 
喜びや幸せの裏には、それとおなじだけの
苦しみや憂いがある。
瞬間瞬間で変化する「楽しい」・「悲しい」。
 
たったまばたき一瞬で、次の楽しいが生まれ、
次の悲しいが生まれ ・ ・ ・
 
 
 
何気なく詠っているようで、
『赤壁賦』には当時の政権に対する批判や嘆き、
切なさも込められていたり。

言論の不自由、直接的に言えない実情も、
当時の背景にあったと思われますが。

比喩が得意な蘇東坡ならではの、多くの示唆に
富んだ“絵画的な詩”
現代にも十分通じる作品だと私は思います。
 
しかしながら、
今ほど人々が『赤壁賦』に興味の無い時代はない
でしょう。
皮肉にも争いは無くならないというのに。
 
 
蘇東坡はこの『赤壁賦』を、世に残そうと思って
綴ったわけではないはずです。
自身の率直な心情を外に吐露(表現)したものが、
結果として1000年近くも“残ってしまった”…
 

“自分を貫いて生きる難しさは今も昔も同じ”

“流れにまかす”

“いまを楽しむ”


彼の“本質的なメッセージ”が、
後世にわたり多くの人の共感を生んでいって…
 
尽きることなく流れる水のように。
 

 
たとえカタチ(肉体)は消滅しても、
精神(想いや魂)は、ずっと生き続けるようです。
人の心の中に。
 
いつまでも ・ ・ ・
 
 
 
 
 
 
社会性というものから、いかに離れられるか。
(心をどこに置くか)
 
明月を愛でながら一碗の茶を啜る、
この時くらいは…   


忘れたい
 
 
 
 
ここまでお読みくださり有難うございました。
次回は「後赤壁賦」を読んでまいります。
 
 
癸卯七月既望
KANAME
 
 
文章一部引用・参考文献、参考資料
 
・『蘇東坡詩選』 小川環樹・山本和義 選訳 1975年 岩波書店
・『蘇東坡全詩集』第一~六巻 久保天随・釋倩潭・岩垂憲徳 訳註 1978年 日本図書センター
・『文章規範 (正篇) 下 新釈漢文大系』 前野直彬 著 1962年 明治書院
・『古文真宝 (後集) 新釈漢文大系』 星川清孝 著 1963年 明治書院
・『漢詩を読む③ 白居易から蘇東坡へ』 宇野直人・江原正士 著 2011年 平凡社
・『蘇軾 その詩と人生』 海江田万里 著 2020年 出版芸術社
・『荘子 第一冊 内篇』 金谷治 訳注 1971年 岩波書店
・『荘子 第二冊 外篇』 金谷治 訳注 1975年 岩波書店
・『荘子 第三冊 外篇・雑篇』 金谷治 訳注 1982年 岩波書店
・『荘子 第四冊 雑篇』 金谷治 訳注 1983年 岩波書店
・『長江と唐詩人』 森下金二郎 著 1984年 萩の郷工場印刷部
・『宋詩選』 入谷仙介 著 1967年 朝日新聞社
・『唐宋八家文』上 清水茂 著 1966年 朝日新聞社
・『唐宋八家文』下 清水茂 著 1966年 朝日新聞社
・『中国詩歌原論』 松浦友久 著 1986年 大修館書店
・『科挙』 宮崎市定 著 1963年 中央公論新社
・その他
・Wikipedia