花間一壺酒

花間(かかん) 一壺の酒

 

花咲く木々の下、一壺の酒を飲む



 

 

獨酌無相親

独り酌(く)みて相(あい)親しむもの無し

 

相手もなく独り酌む

 



 

擧杯邀明月

杯(さかずき)を挙げて明月を邀(むか)え

 

杯を挙げて明月を迎えると

 



 

對影成三人

影に対して三人と成る

 

私の影とあわせて、三人となった

 



 

月既不解飲

月 既に 飲むを解せず

 

月はむろん飲酒の楽しみを理解していないし

 



 

影徒随我身

影 徒(いたず)らに 我が身に随(したが)う

 

影もただ私の振舞いにしたがって動くばかり

 



 

暫伴月將影

暫(しばら)く月と影とを伴なって

 

しかし、しばらくは、月と影を相手に


 


 

行樂須及春

行楽(こうらく) 須(すべから)く春に及ぶべし


短い春の夜を、

心ゆくまで大いに楽しもうじゃないか

 

 


 

我歌月徘徊

我れ歌えば 月 徘徊し

 

私が歌えば、月は夜空をめぐり

 



 

我舞影凌乱

我れ舞へば 影 凌乱(りょうらん)す

 

私が舞えば、影は地上に乱れて揺れる

 



 

醒時同交歓

醒(さ)むる時 同(とも)に交歓(こうかん)し

 

飲んでいる間は、

ともに歓び楽しみあっていても


 


 

醉後各分散

酔うて後(のち) 各(おの)おの 分散す

 

酔ったあとは、お互いが好きに帰っていく

 

 


 

永結無情遊

永く無情の遊(ゆう)を結び

 

そこに無用の情はないから、

お互いにいつまでも交遊を結び

 



 

相期邈雲漢

相(あい)期(き)す 邈(はる)かなる雲漢(うんかん)に

 

あの遠い雲漢(天の川)で再会することを、

かたく約束しよう

 

 

 




“どれだけ酔っていようとも、的は外さない


私に惹き寄せられ、

詩のほうから勝手にやって来るのだ”



自他共に認める大の酒好きで、

自らを“酒仙”と呼び、後に“詩仙”と称された

盛唐の詩人李白(りはく/701-762)の代表的な五言詩


『月下獨酌(げっかどくしゃく)四首・其一


です。(意訳はご参考までに)




自然を愛し、月を愛し、酒を愛した李白。


自然と対峙するのではなく、

自然と同化する。



すると、


自分も自然の一部なんだと、

“ありのまま”でいいんだと、悟り知る。


いいや… そんなことすら忘れてしまう。




“天界からこの世に流されてきた仙人”


それが李白。



私の大好きな詩人です。




この『月下獨酌』をはじめ、

彼の詩の大半は、

月、酒、故郷を詠ったもので、


中でも『静夜思(せいやし)は、

私にとってはとても思い出深い特別な詩。


30歳の時、

“運命的に”、“必然的に”、出合いました。



私の“旅”はこの詩から始まったと言っても、

過言ではありません。





彼の詩は、

大胆かつ情熱的な一面を漂わせながらも、


その奥には、

けっして揺るがない美意識冷静な緻密さ

潜んでいる。



順風満帆、すべて満たされた人生なら、

こんな詩は生まれない。作れない。



“強烈な孤独”


“逃げ込みたい世界”があるから、それを、

詩を介して表現できたのだろう。




以下

『李白 詩と心象』松浦友久著 (P.15/P.18)

より引用



“「奔放(ほんぽう)」「飄逸(ひょういつ)」とは、

李白の詩風を表現する伝統的な形容詞で

あるが、もう少し踏み込んで考えてみると、

かれの奔放さ、飄逸さは、

たんなる奔放ゆえの奔放、飄逸ゆえの飄逸

ではないことがわかる。

むしろ、

対立する要素としての緻密や執着、それを

内に含んだ奔放飄逸であることに気がつく”



“異郷に身をおくということは、たえず変転

する未知の環境に心を開いている、

ということである。

新しい土地、新しい風物、新しい人間関係、

そういった変化のなかに興味や関心をもち、

それを求めて一生を送るという態度。

それは柔軟な心によってこそ可能である”


(引用ここまで)




李白は、その生涯の大半を、

各地を歴遊して過ごしました。


とはいえ、それは、

「旅行」でもなければ、「観光」でもなく、



物凄く厳しく、そして非常に切ない、


終わりなき心の「旅」でした ・ ・ ・





“不自由”を知ったことで、“自由”を知った。


それは

“真の自由”とは言えないかもしれないが、



それでも、

“自由になりたい”… と思うのは、同時に、


“何かに拘束されているという現況”

示唆していて・・・




社会の煩わしさを排除すればするほど、

“自由”になっていく…  ような気がしたけど、


“自由の果て”を手にするということは、

それは

ますます孤独になるということでもあり、


その孤独は、


“不自由”にもなり得る…



“自由”と“不自由”からは逃れられないのか。




自由なんて無くて、

不自由も無ければ、 いいのにな・・・





不遇の中に、

思う通りに運ばない人生の“ひずみ”に、


詩が生まれてゆく。




切ない孤独。


暗ければ暗いほど感じられる明るさ。


寂しさを寂しさだけで終わらせない。





この豪放で、繊細な心。


この単純で、複雑な心。




私には“理想”があった… … … が、


いつしか

希望は失望へと、自負は不満へと、


変わっていった・・・




やっと“自由”を手に入れたと思ったら、


さらなる“不自由”が待っていた・・・





私にはとても耐え難かった・・・


私には合わないとわかった・・・




そこは、

“自分の理想とする場所”では、なかったのだ。






“私の居場所”は、一体どこにあるのか・・・



“自分の居場所”が、未だ見つからない・・・




ならば、


このまま“旅”を続けるしかないだろう




心の旅 を ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・






辛丑 大暑前日 暮夜

KANAME


文章一部引用・参考文献

『李白 詩と心象』松浦友久著




【関連記事】


2021年9月22日 投稿


2021年9月14日 投稿


2021年9月4日 投稿


2021年9月3日 投稿