『賞心十六事(しょうしんじゅうろくじ)

“心を愛でる十六の楽しみ”



北宋代の蘇東坡(そとうば/1037-1101)の詩です。


「賞心」とは、景色を愛でる心。





淸溪淺水行舟
清らかな谷間に流れる浅い水の上を舟で行く



凉雨竹窗夜話
涼雨降るなか、窓の外に見える竹を背に夜話をする



暑至臨流濯足
夏に至り、流れに臨んで足を洗う



雨後登樓看山
雨のあとに楼台に登って山を看る



柳陰堤畔閒行
柳陰の中、堤の畔をのんびり漫ろに歩く



花塢樽前微笑
花が咲く土手で酒樽を前にして微笑



隔岸山寺聞鐘
岸を隔てて山寺の鐘を聞く



月下東隣吹簫
月の下、上に座るあなたが吹く洞簫の音色を聴く



晨興半炷名香
明け方に起きて半炷名香をきく



午倦一方藤枕
気怠い昼、ひとつの手立てに藤で編んだ枕で一眠り



開甕忽逢陶謝
酒の甕を開けたらたちまち陶淵明と謝霊運に逢える



接客不着衣冠
衣や冠を脱ぎ社会を忘れ客人と接する



乞得名花盛開
お願いして手に入れた珍しい花が盛りに咲いている



飛來佳禽共語
飛んできた佳き鳥と共に語らう



客至汲泉煎茶
客が尋ねて来たので泉を汲んで茶を煎じる



撫琴聴者知音
琴を撫で、自分の音を知る者に聴かせる




以上、十六の賞心。

意訳はご参考までに。
それぞれの賞心にまつわるお話は、
ここでは割愛させていただきますね。

『賞心十六事』は、
また今後も記事にしていく予定です。





“不自由”を知って“自由”知る。

“自由”を語れるのは、
“不自由”を知っている人だけ。


生まれてこのかた“自由”しか知らない人は、
“不自由”を知らないかわりに、
“自由”も知らない。


優れた才能がありながら、
“不自由”な人生を送った蘇東坡。だからこそ、

詩や、書や、画で、
積極的に表現し“自由”を楽しもうとした。

それが『赤壁賦』『賞心十六事』となって。



幸せしか知らない人にとって
この『賞心十六事』は、
“単なる日常の出来事”に過ぎず、
そこに喜びという感覚はないのかもしれません。

ですが、蘇東坡にとっては、

普段できないことだからこそ、
そこに出合った喜びがある。



これら十六の情景は何一つ贅沢なものでは
なく、
現代に生きる私たちでもまったく同じ経験が
できることばかり。

それ
彼にとっての“心を愛でる楽しみ”なのです。



何でもない情景を詠った
たった六文字の言葉の奥に秘めたるもの。
その奥深さ、真摯なものの捉え方。

さりげないその言葉の奥には、
彼が身につけた自然に対する愛や思想、哲学、
古典の教養たっぷりと潜んでいます。


そのため、この六文字を、
想像力を持ってしてどこまでも深く考察して
いかなければ、

まったく読み解けない部分や、
他に学んでいなければ繋がらない表現などが
多く含まれていることも事実。


それを理解してはじめて
この言葉の真意がわかってくる





1000年も前の詩。

なのに、とても身近で、そして…


“不自由さ”を感じる
今の私たちの暮らしにおいても、

“十分にそれを楽しむことができるよ”  …と

そう教えてくれるのが、
『賞心十六事』でもあります。



けっして「詩」という形式を守る必要はなく、
自分の経験記憶を言葉に置き換えられたら

私は、それは“詩”であると思っています。


何気ない日常の中身近なものの中
詩情を抱く瞬間は、
だれにでもあるのではないでしょうか。

詩というものは、
なにも難しい世界ではありませんよ。


あなたにとっての“賞心”とは何ですか?





たとえば
鐘の音ひとつにおいても…


夏の明け方に、
蜩が鳴き始め、小鳥の声が聞こえ、
薄明かりの中、
どこからか聞こえてくる梵鐘の音には、
一日の始まりや陽光を感じます。

ところが、もう朝か…と、
朝まで起きていた人からすれば、
それは一日の終わりの合図になることも。

或いは
真っ暗闇の中に響き渡る梵鐘の音には、
静寂さや、心の奥へと導く何かがあります。


詩情はその時々で異なりますね。




ゴーーーーーン  ・  ・   ・    ・     ・   


どこまでも遠くに鳴り響く梵鐘の音には、
一切の苦から逃れ、悟りに至る功徳があると
されています  …が、

いつどういう想いを持って聞くかは、
人それぞれ



どことなく寂しげに聞こえてくる梵鐘の音。

故郷であったり、いつかの思い出であったり、
鐘によって“あの時の情景”が想起され、

フッと心中を移動して ・ ・ ・


記憶の中に呼び起こされる鐘の音もまた、
ひとつの“賞心”と言えるかもしれませんね。




数年前、
四国八十八ヵ所霊場巡礼の旅をしていた頃、

疲れきった夕暮れ時の山中で
梵鐘の音を聞きました。


その音はずっと向こうの山のほうから、
森を越え、谷を越え、

うっすらと、でも確かに、
私の耳に伝わってきました。

なんとも言えない瞬間でした ・   ・    ・



時には時報として、

時には
“記憶をたどるきっかけ”として。






奈良の山に棲む私の師匠から
数ヶ月前に送られてきた一枚の絵葉書。

しばらく会えていない師が
おそらく即興で描いたであろうこのを見た時、

最初は、
何でもないただの山水だと思いました…


でも、
そのあと私はハッと気付きました。

これは『賞心十六事のひとつの情景だと。



それが今日の記事のタイトル

隔岸山寺聞鐘です。




この詩を、
蘇東坡が詠んだ十六の賞心について、
深く深く師から学んでいなければ、

きっとこの画の中から響き渡る梵鐘の音に
耳をそばだて、
それを楽しむ発想すら持てなかったでしょう。


楽しむために、知る。

楽しみの幅を広げるために、学ぶ。



たった一枚の絵葉書が、

今の今になって

私の心を救ってくれる。




今あらためて、

この画の中に入り、


“心の旅”を楽しむことにします ・ ・ ・





辛丑 大暑前六日 夜
KANAME


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