こんにちは!(^-^)

 

 

空は白く薄暗く、雲の動きもわからない。

今日は少し肌寒いですね。




昨日の『午睡』の記事に引き続き、


今日も「芭蕉」のお話を・・・

 


さいごまで

宜しくお付き合いください\(_ _)





私が芭蕉の葉に込めた、

もうひとつの意味


それは、


「芭蕉の葉を紙と為す」

 


その精神です。




この言葉は、

日々書の練習に励んだ若き日の僧

懐素(かいそ)の故事に由来します。

 


懐素(725-785)

 

唐代を代表する書家のひとり。

 


貧しい家に生まれた懐素は、

幼くして仏門に入れられ、

修行の傍ら書の稽古に励みました。

 

ところが、

なかなか紙を買えず、困り…

 

そこで

自分の庵や寺周辺の空き地に芭蕉を植え、

毎日池の水で墨を磨っては、

芭蕉の葉を以って紙と為し、

書の練習に打ち込みました。

 

懐素が植えた芭蕉は数万本とも…



彼は「狂草」と呼ばれるほど、

何処にでも字を書いてしまう“書き癖”があり、

書いて、書いて、酒に酔っていても、

とにかく書きまくっていたそうです…


変わった人物です…🖌️



王羲之(おうぎし/303-361)の字を倣書し、

毎日練習していた懐素でしたが、


やがて

伝統的な書風に飽き足らず、

新たな表現を模索し始めます。



そしてついに、


奔放かつ躍動感に溢れる独自の書風

「草書」を完成させました。

 

そうです。

草書体のあの“草書”です。



その後は長安(今の西安)に渡り、

玄奘三蔵(尊称は三蔵法師)に師事しました。

 

 



さて、


こうやって

偉そうに懐素の伝説を語るですが、

 

何を隠そう

私は、草書はまったく書けませんし、

読むこともできません…(×_×;)

 

現時点でそこまで

“草書そのもの”に興味があるわけでもない。



ですが、

読めない草書(掛軸の画賛や詩や書)に

出合う度、


気になったものは、

なんとかして読もうと・・・




そこで

草書大字典』の力を借ります。





もちろん、よく知られた詩なら、

ネットや書物にも訳文が出てきますので、

照らし合わせながら字を解読できますが、


ネットにも出てこないもの大変です。

 


一文字ずつ…  一文字ずつ…

 

時々 を喫しながらお茶


寝て起きて…また字典を開き…



そんな感じです。




字を解読し、読み下していく作業は

とても時間がかかりますよ。

(すぐ日が暮れる…)

 



とくに、画が一切画かれてなく、

字のみ書かれた掛軸などに出合った瞬間は、


ウワァ・・・・・・(; ̄Д ̄)↓↓


と正直思ってしまいますが、、、




でも、


けっしてパッと読めなくても、



焦らず、



まずは心落ち着かせて

字と向き合うようにしています・・・




例として… ↓


↑ これらは数年前のある日師匠が掛けていた
師匠所蔵の掛軸です
勉強中に許可を得て撮らせていただきました




心静かに字と向き合い、そして、


何か“感じるもの”があれば

それを“入口”にして、


自分から歩み寄ってみる・・・




字の力強さ、或いは静寂さ、


墨の(どこで墨を継ぎ足したか)、


字と字の間隔、個々の字の大きさ、



紙や素地の古さや雰囲気、表装、そして、


直観的に伝わる総合的な空気感


それを書いた人物の気配・・・




などなど。


そうしたものを手掛かりに、その上で、

いよいよを読み解いていく。



文字数を数えてみて…


読める字から探して…


読めない字を調べて…




すると、不思議なことに、


最初に観たときの印象(第一印象)とは


少し変わってみえてくる・・・




字の“ウマイ・ヘタ”ではなく、


字のその情景が浮かび・・・


人物の心中が浮かび・・・




これは、字にかぎらず、画でも同じこと。



を読み解いていくことで、


たとえ最初はそれほど興味がなくても、

何と書かれているかがわかれば

その書(掛軸)が好きになることもまた然り。


興味を持つ“きっかけ”にもなりますね。




直観だけでは不十分。


感性だけではわからぬ世界。




知ると、価値は変わる。


知ると、楽しみは増える。




↑ 私が愛用する『草書大字典』です
(見にくいですが)



 彼の作品には、

 『自叙帖』などの代表的なものをはじめ、


現存する最晩年の作品としては、

『草書千字文』があります。

 

 

また、

懐素が居た庵は「緑天庵」と呼ばれました。

 

「緑天」とは、芭蕉の雅名のひとつ。

 


 

 

葉が重なり合って濃くなる

 

グラデーションの間を吹き抜ける涼風。


そこはまさしく

 

 

緑天の世界・・・・・・・・・

 

 



俳論「不易流行」を編み出した

江戸前期の俳諧師松尾芭蕉(1644-1694)も、

自身の庵の庭に芭蕉を植えていましたね。


懐素の故事

あの芭蕉が知らないはずありませんから、

恐らく懐素の精神に倣ったのでしょう。

(もちろんそれだけが理由ではないですが)



庵の周辺に芭蕉が生い茂り、

後に弟子たちがその庵(元は「草庵」)を

「芭蕉庵」と呼ぶようになり、

芭蕉は「芭蕉」と号(戯号)しました。






先人たちから学ぶことは多い。




思うように人生が運ばない、


その“歪み”(ひずみ)に、


詩が生まれ、表現の原動力が生まれる。




“幸せしか知らない人”に幸せはわからない。


同時に、


“幸せしか知らない人”が発する言葉には

何の深みも重みも感じられない。


技術ばかりが目に入り、

詩情が伝わってこない芸”のようなもの。




すべて満たされていたら、

今の自分は存在しない。


逃げ込みたい世界があるから


理想とする世界があるから



それを表現できる。





本来(大昔)の書家は自分で詩もつくります。


当たり前ですよね。

詩(言いたいこと)が先にあるから、

それを字(や画)にして表現するわけです。


また、

陶淵明にしろ、李白にしろ、蘇東坡にしろ、

「詩人」と呼ばれますが、

彼らはけっして

それを“生業”としていたわけではありません。


不遇な人生を送り、孤高に生きる中で、



何気なく吐露した心情



“詩”となり

今なおのこっているだけ。


後世に渡り多くの人の共感を生んで。





さいごになりますが、


私がこの掛軸(昨日の記事に掲載)を掛けた、

或いは、

この掛軸を“持っていたい”と思った


もうひとつの理由



それは…




掛軸に画かれた芭蕉に、

たまたま知っていた懐素の故事リンクし、

さらに

蝉、蟻、、、、、


そこから想像が膨らんでゆくなかで…




才能が人格を上回り、

才能に振り回されることのないよう、


また、

どんな環境、どんな状況に陥っても、


どれだけ世間から追いやられても、



私は変わらず心を旅し


“真実の探究”に傾注し続ける。



そして

「修行(技術)」と「修養(人間)」を、


不断の「修」を、


これからも積み重ねていきたい。



‟私も地道に励みます”




…という


自重自戒の念を込めて、



私は今この掛軸を持っています。




精神性の世界において。

 




私は今日も

 

‟今日”という日を


思い切り堪能できるだろうか・・・

 

 


そんなことを呟いていたら、


無情にも


月日だけが過ぎてゆく・・・





“ムダ”と思える時間があるから、


そうでないと思える“一瞬”を大切にできる…



“ムダ”を全部省いた人生なんて、


これほど“つまらない物語”はないですから…





思うようにはいかないから、



思うように受け止められる。



如意





どこまでも



自分の興味の赴くままに、



生きたい な。(完)



 



ここまでお読みいただき

ありがとうございました。

 

平安如意

 


2021.05.11

KANAME

 


 

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2021年5月10日 投稿