ラブストーリーの傑作など、古今東西あまたあるが、個人的に大好きなラブストーリーといえば真っ先にこの映画をあげよう。やはり好きな映画に理屈はない。

 

でも、やはりなぜだろうと考える。確かに理由はいくつかある。

映画音楽がいい、脚本がいい、スターの演技がいい、そしてなんと言っても監督の演出が素晴らしい。…などなど。

そりゃ、それは当然。ただ、最終的に好きな映画に理屈はないという結論に陥ってしまう。監督の演出が素晴らしくいいからと言って、直ちに自分の好きな映画ベスト10に入るかっていうとそうじゃない。

 

この映画、この十数年で5回ぐらい観ている。と言っても今回見たのはおよそ10年ぶりか。いやもっと月日はたっているかもしれない。14年ぶりかもしれない。ま、この際どうでもいい(笑)。

 

とにかく、挿入歌の「セプテンバー・ソング」、これがまず素晴らしいのが1点。そして、ラストのラフマニノフのピアノコンチェルトの1曲。これだけでこの映画の魅力の大半は完成されているのかもしれない。なんてロマンチックな映画だろう。そしてなんて美しい旋律だろう。とにかくこの2曲に酔った。そしてその曲の使い方にまた酔いしれた。まさに、「セプテンバー・ソング」の歌詞のまんま、あまりにも切なく美しい結末を迎える二人の恋物語。

 

歌詞の一部の大意を取り上げると、「若き頃、恋をした。やがて君は僕のものになった。その恋が始まったばかりの時は待つのも楽しみだった。(二人が共に過ごした)5月から12月の間は長いけれど、(別れが近づいてくる)9月に入ると急に日々の流れは早くなる…。9月になるともう待つことを楽しむ余裕はない。だから残された日々を大切にしよう…」・・・・。

 

なんとまあ、切ない歌詞だ。ウォルター・ヒューストンのハスキーすぎる歌声がまた泣かせる。たまらない、あー美しい。何もかも。

 

そう、好きで何度も見る映画に理屈がないように、恋をすることにもやはり理屈はない。その場のロマンチックな雰囲気、まさかの飛行機事故というありえない奇跡起きる、それも2回も続けて飛行機事故がらみの事件が起きるというとんでもない偶然、そして互いのルックス、見た目もあるだろう。この映画では女の方、ジョーン・フォンティンは眩いばかりの美女だ。男の方はなんといってもずば抜けた包容力だな…。ジョセフ・コットンのあのどしっと構えた落ち着きというか、余裕。それなりの人生のキャリアを積んでいないとなかなか出るもんじゃない。仕事においても家庭においても。それなりの大人の女性は、そういう包容力にとことん弱い(と、あくまで30代半ばの私は思う)。

 

ま、とにかく偶発的なものが重なり合って、別に旅先でアバンチュールに期待するわけでも、ことさら主人公二人が恋愛体質だったというわけでもない。暇つぶしに恋するつもりなんてのも全くなかったのだが、ビターッと条件が合致してまたたくまに恋に落ちる。これが恋に落ちるっていう事実。恋というものは、しようと思ってできるもんではない。ただ落ちるのだ…。いうまでもないが、そこに理屈はない。歳の差も、既婚か未婚か、そんなもん一切が関係ない。

 

そういうわけで、過去をきっぱり捨てて今この時を愛しあっていればいいじゃないかという刹那的な感情で、飛行機事故で死んだ犠牲者ってことにして幽霊のように異国の地で幸せに暮らし始める二人。ま、ある程度の年齢を重ねた人にはわかると思うがそんなもの、長続きする訳はない。だって、若い女の方はともかく、男の方はどう見てもまだ引退する年齢ではない。どう見ても40代だ。この先仕事もせずにどうすんのって話で。それは確かに当事者もわかってるだろうけど、恋に落ちたらそりゃ盲目ですから。

幸せな時間は短いのだ。あまりにも。なんて儚いのだろう。だって、1年も持たない愛の暮らしなんてあまりに短すぎる。でもまあ、後先考えないのが恋というものであって。あと先をきっちり考えてりゃ、ゆきずりの恋なんていくら美男美女で気量が良くてもそうそう簡単にできない。

 

わずか半年ちょっとの燃えた二人の愛。そして、それは燃えつきないままに別れるというのがまた理想でもある。ひとっかけらの愛も残らないまま決裂するよりかは、まだ幾分か、互いへの愛がたとえいくばくかでもあるうちにきっぱり別れるというのは素晴らしく美しいものだ。これは理想だ。なかなかできない。特に我々凡人には・・・。

まだ相手を好きなうちに永遠の別れを告げることができれば、これほど素晴らしい幕切れもないだろうと思う。かなりの勇気がいるのはいうまでもない。

 

そういえば、カラー映画で、この5年後の映画であるけど、「旅情」もそういう映画だった。たった一度の契りを結び、まだまだ未練があり、まだ互いへの強い恋心があるうちに女の方から静かに幕を引くメロドラマだ。やはり既婚者と独身者のアバンチュールでは独身者からズバッと身を引くのは究極の理想と言っていい。

 

その点、この映画は共通している。あまりにも切ない展開だ。女はこういう時にこそしっかりしていなければいけないなどど、私は勝手に思う。いざという時に絶対に別れを告げるべきなのは女の方というより、独身の立場なのかもしれない。それが不倫の恋に陥った者の定めというか…。ま、何が正しいかなんて正解はないけれど、そう思わすだけの説得力がある演技と演出だった。本来、不倫を含め、恋愛に、第三者の立場がどーのこうの介入するもんじゃないからな…。

 

5回目とはいうものの、本作を見てしみじみ思った。不倫の関係、どっちに責任があるわけでもどっちが悪いわけでも、どっちがだらしないわけでもないなって。私が20歳そこそこの若さでこの映画に初めて出会ったときは、妻子持ちの男性の方がグラグラしすぎやなーって思ったものだった。おいおい、ちょいと君はだらしないのではないかなんて。戻るか戻らないかはっきりセーよって思ったもんだった。

それに比較してなんとまあ、独身の女の方は潔いんだろうとスカッとするというか、一種の理想だなーなんて、素晴らしいななんて思ったもんだった。まだ愛情があるうちに、こんなにもズバッと別れを告げることはなかなかの勇気の持ち主だって感動したもんだった。でも今じゃ、どっちがどーのこうのいう意味の虚しさに気づいた。どっちが悪いだのどっちが賢明だのそんなことはあんまり思わない。

 

やはり、道ならぬ恋に落ちて、男と女の恋愛関係にズバッと陥るっていう時点で、どちらにも責任はあって、そして何がしかの背負っているものはあるわけで。どっちもに因果はあるもんであってね。どっちが悪い、どっちがいいなんてそんなもん、決めつけるだけ無意味だということがつくづくわかる。女の方が可哀想とかそんなふうに思うのはナンセンスだなって気づいた。

 

この映画でのジョセフ・コットンは、確かに最後はグラグラでだらしないなーなんて一般人が思うのも致し方ない。おいおい、早く、はっきりせえよって、何度見ても思った(笑)。

だが、長年連れ添った女房が別れたくないと初っ端で言ってきたことからも分かるように、やっぱり彼が真面目にちゃんと仕事してそれなりに女房を大事にして生きてきたから、女房もそういう態度をとるわけであってね。まだ愛しているのだ。息子は息子でちゃんと父親が仕事に一途でがんばって働いてきた、だから家庭にまで手が回らないこともあって当然だってことをわかっているかなり頭のいい息子なんだな。父親が息子にはたいして何にもすることができなかったと心配しなくとも、父から子への愛はある程度伝わっているわけ。ちゃんと真面目に働いてきたからこそ、いざという時に美女と不倫もできるわけ。だって、いくらなんでも、あまりにひどい生き方をしていたら、いくらなんでもジョーン・フォンティンほどの美女は見向きもしないと思うわ(笑)。

 

このひたすら、家庭を顧みずただ一生懸命己の仕事に邁進して、息子にもその一生懸命さを背中で知らせてきたっていう、ちゃんとした過去がなければやっぱり美女もここまでぞっこんにならなかったと思うなー。それを改めて気づかせてくれた。

 

やはり、いい映画は何回見ても新たな視点で、ある一つの真実を教えてくれるもんですな…。しみじみ思ったのでした。