ベッドから起き上がれなくなった日から、毎日地獄の日々を過ごした。

季節は夏へと変わっていたようで、部屋は暑かったが、クーラーのリモコンに手を伸ばすのもしんどかった。

ずっと横になっているしかないのに、息子は「ママー」と笑顔で近づいてきてくれた。


でも、正直家にこもってた半年間の記憶はあまり無い。


やっと春が来そうな肌寒い日、不幸にも交通事故で知り合いが亡くなり、せめて葬式は、と外出し、それから少しずつ外に出られるようになった。


その後、週に一回から出勤し、一進一退を繰り返しながら、少しずつ復帰した。


大学病院に勤務をしたが、当時病院長だった教授は「厳しかっただろうけど、あくまで指導の一環だった」との姿勢を崩さず、お局は何事も無かったように勤務を継続しており、傷口に塩を塗るような対応しかなかった。


当時、一切の環境を変えてしまえば、もう少し完全復帰までの期間は短かったかもしれない。


でも、何もできないまま医局を離れ、まだ気力体力も十分でなく、新しい職場など到底無理であった。


辞めたら、医者はできなくなるという気持ちが私を動かしていた。


そして徐々に闘う気力が湧いてきた。


労基署へ相談することにしたのだ。


思い出すことはまた辛い体験を再体験ことになり、話すたびに涙が止まらなかった。


でも、私には客観的な意見を証言してくれた第三者がいた。


半年くらいかかっただろうか。


私の鬱病はパワハラによる労災と認められた。


それでも病院、上司からは一言の謝罪も無かった。


弁護士さんからは訴訟も視野に入れた提案もあった。


でも大学病院を訴えるなんて、やっぱりその後の医者人生に関わると思って、辞めた。


そして週5で働けるようになった2年後、医局を辞めた。


どうして個人的にでも謝るということができないのか、


少なくとも私は一生そんな人間にはならないでいたい。


私は何かにおいて、無駄な経験は何もない、と思うタイプであるが、


ずっと死の淵にいるようなこの経験だけは、できることならしたくはなかった。


人を恨んでも何にもならないのに、お局、部長、教授に対する憎しみが心に溢れてきたあの頃。


いいことなど、一つもなかった。


でも10年以上が経った今、あの時があったからこそ生きていることに感謝し、日々を大切に生きれて、


色んな患者さんのつらい気持ちが分かるようになったのかな。


それならやっぱり無駄なことなどではなかったのだろうか。