◆君塚直隆『教養としてのイギリス貴族入門』を読み解く



★要旨



・第一回ロンドン万博の水晶宮は、

当時のヴィクトリア女王の夫アルバート公が、

さる貴族の屋敷に感銘を受けて作成したもの。



・それがデヴォンシャ公爵家の「チャッツワース・ハウス」である。

莫大な借金を抱えながら築きあげた「英国で最も美しい館」

といわれる。



・公爵となったデヴォンシャ家が

所有するチャッツワース・ハウスはロンドンの邸宅(デヴォンシャ・ハウス)も、

やがてイギリス社交界の中心地へと位置づけられていった。



・イギリスの王家もハノーヴァー家に代わった18世紀前半に登場したのが、

第4代公爵ウィリアムである。



・21歳で庶民院議員に当選し、

一躍若手政治家の中心的な存在となった彼は、

父から公爵を引き継いだ翌年、1756年になんと首相にまでのぼりつめる。



・44歳で急逝した4代公のあとに5代公となったウィリアムは、

父とは違って政治には関心を示さなかった。



・5代公が関心を示したのは社交生活のほうだった。

25歳のときに初代スペンサ伯爵の長女ジョージアナ

と結婚し、

ロンドンの邸宅はホイッグ系の政治家たちのたまり場にもなっていく。



・公爵家が負債を抱える原因を作ったのが2人の長男で、

1811年に家督を継いだ第6代公ウィリアムだった。



・彼は生涯独身を貫き、愛人をつくるようなこともなかったが、

唯一のめりこんだことがある。

それがチャッツワース・ハウスだった。



・この屋敷が一族の居城となって300年近く経過していたが、

6代公はここを自身の趣味によって大改修していく。



・こうした大事業で、公爵の借財は瞬く間に膨らんだ。1858年に彼が亡くなったとき、

デヴォンシャ公爵家には100万ポンド以上もの借金がのしかかっていたとされる。



・これを請け負わされたのが遠縁にあたり、

7代公爵を引き継いだウィリアムだった。 

彼は公爵になるや、イングランド北西部のバローで製鉄業や造船業にも莫大な投資をおこない、

1874年にはついに30万ポンドの年収を手にする。



・3万ポンドの年収があれば大貴族といわれた当時にあって、

それは公爵がイギリスで最も富裕な人物と言わしめたほどの莫大な富であった



・8代公は、所領経営の才にも長けていた。

公爵はアイルランドに保有していた土地を売却し、

その利益を株式市場に投資した。

これが大当たりとなって、

父が残した200万ポンドもの借金を50万ポンドにまで減らすことに成功する。



・1946年から屋敷はチャッツワース財団の管理下に置かれることとなった。



・そして11代公爵アンドリューの妻デボラというこれまた「女傑」を得て、

公爵家の財政は再建されることとなる。



・2014年に彼女が94歳で大往生を遂げたとき、

600人以上にも及ぶ召使いや従業員らが公爵夫人の野辺送りに立った。

それはいにしえの公爵家の栄光の名残りにも思われた。



★コメント

英国貴族の歴史を通して、

イギリスの歴史を学びたい。