◆常井健一『昭和の東京。12の貌』を読み解く



副題→永田町「権力の三角地帯」は空洞化した。



★要旨



・雑誌の記者というものは、国会議事堂の中を歩かない。

それは伝統的に記者クラブから排除を喰らっているからではない。



→新聞やテレビが報じる建前よりも本音に迫り、

忖度せずに活字に残すのが生業だからだ。

おのずと永田町でも「裏道」を歩くのが日常になる。



・一致団結箱弁当。

それを合言葉に竹下登を支えた小渕恵三や梶山静六、

渡部恒三ら経世会の面々、海部俊樹や森喜朗ら早大雄弁会の後輩も

永田町TBRビルに拠点を構えた。



・議員会館の手狭な応接室は、

5、6人も座ればいっぱいになり、

話し声も筒抜けで密談に適さなかった。

だから、財力のある議員は国会の外に事務所を置いた。

永田町の住人たちはこうした部屋を「外事務所」と呼んだ。



・小池百合子の人生には父・勇二郎の「影」がある。



・小池勇二郎はアラブ交易で財をなした。

「戦後の黒幕」の一人と目された末次一郎の鞄持ちで

中東を訪ねたのがその始まりだった。



・だが小池百合子の帰国後、父の会社が倒産。

小池は当時からよく末次に進路相談をしていた。

その末次一郎こそがアラブ協会理事だった。



・また父、勇二郎は、石原慎太郎のタニマチでもあった。

石原都政の副知事を務めた浜渦武生は学生時代、

小池勇二郎の選挙を手伝い、小池邸に居候していた。



・竹下と小沢の修羅場。



・経世会が宮澤内閣を築いた一年後、

竹下と小沢が「最終決戦」を繰り広げることになった。

現場は、パレの11階の金丸事務所だ。



・金丸信の息子、信吾によると、あのとき、

小沢一郎はいつになく攻撃な口調で

竹下を突き上げ続けた。



・金丸信はなだめようとしたが、

小沢は聞く耳を持たず、竹下に延々と

積年の恨みのような罵詈雑言の数々をぶつけた。



・金丸信吾は、こう語る。


「佐藤政権からオヤジの秘書をしてきたけど、

小沢さんの凄みを初めて目の当たりにしました。

『あの時、ああだった』『こうだったじゃないか』

と過去を振り返りながら、強烈な物言いで面罵していました。

なのに、竹下さんは一切反論しない。

小沢さんの迫力も凄かったけど、

竹下さんもよく黙って耐えていられるなと

感心した覚えがあります」



・修羅場のようなやりとりが一時間も続くと、

金丸は席を立った。



・その後ほどなくして、

金丸と小沢の関係にも亀裂が入った。



・「オヤジが逮捕後、病気になったりしても、

小沢さんからは死ぬまで一切連絡はなかった」

(金丸信吾)



・金竹小の三人が、三角地帯から消えると、

「失われた二十年」が到来した。

経世会は橋本、小渕と連続で総理を生んだが、

内紛と分裂が続いた。



★コメント

政治の世界には、ドラマがある。

見極めたい。