◆本橋信宏『新橋アンダーグランド』を読み解く



★要旨


・戦後最大級の傑物、徳間康快(とくま・やすよし)。



・新橋には怪物が棲息していた。

この街で徳間書店を創業した出版界の怪物、

徳間康快は、出版業だけではなく音楽、映画、広告、

といった事業を立ち上げ、

田中角栄との交流を筆頭に

政界、財界へも絶大な影響力を誇った。



・徳間康快が手がけた事業の数々は膨大である。



・徳間は、ベストセラー作家を育て、

アサヒ芸能の連載から生まれた山口組三代目組長田岡一雄との親交、

多くのフィクサーとの交際など、

並大抵の常識では計り知れないスケールが

この男にはついてまわった。



・徳間康快の偉業のひとつは、

採算がとれるかどうかわからない存在だった、

アニメ制作会社・スタジオジブリを創業させ、

どんなときでも支えて育て上げたことだろう。



・山口組からスタジオジブリまで。

徳間康快の左右を問わぬ人脈と懐の深い大物ぶりは、

清濁併せ飲む、などという言葉では言い表せない、

まさに「濁濁併せ飲んだ男」とでも言うべき、

戦後最大級の傑物だった。



・徳間康快は、1921年神奈川県横須賀市生まれ。

早稲田大学商学部卒業、

1943年、読売新聞社に入社。

青年時代はマルクス主義の熱を帯びて、日本共産党に入党。

終戦後、経営陣の戦争犯罪について問いただす、

読売争議を牽引する。



・労組側と経営側の激しい衝突の後に、

紛争は落ち着くが、

徳間は紛争の責任を取らされ退社した。



・その後、緒方竹虎と親しくなり、

1950年、新光印刷を創業。

アサヒ芸能新聞などの経営を引き継ぎ、

紆余曲折をへて、株式会社徳間書店へとつながる。



・徳間康快は出版、映画、新聞、音楽という

あらゆるメディアに手を伸ばし、徳間帝国とでもいうべき、

メディア大国の統括者になる野望を抱いていた。

映画『山口組三代目』などをヒットさせて、

映画界にも本格的に進出した。



・青年時代には不正を憎む共産党員として読売争議の先頭に立ち、

解雇されてからは幾多の会社を引き継ぎ軌道に乗せ、

ついには出版界に隠然とした影響力を及ぼし、

幅広い人脈から戦後期を代表するフィクサーとなった。



・怪物は新橋に居着くようになった。

さほど強くなかったが、酒をこよなく愛し、

ダブルのスーツを粋に着こなし、

異業種のカリスマたちと交流していく。

右から左まで相手をし、懐の深さ広さまで怪人だった。



・徳間康快とスタジオジブリ。



・いまなお燦然と輝く徳間康快の偉大な功績といえば、

なっといってもスタジオジブリの創業であろう。



・『風の谷のナウシカ』の制作がなかなか決まらなかったが、

編集者の鈴木敏夫は徳間書店宣伝部長を説得にかかった。



・徳間書店が映画製作に加わり、

さらに博報堂が参加した。

交渉したのは徳間康快だった。



・1985年、徳間康快の肝いりでスタジオジブリが誕生する。

強面のフィクサー然とした徳間であるが、

詩情を深く愛する一面があった。



・徳間康快の豪快伝説がある。

スタジオジブリが映画制作をする際、

徳間康快は毎回、カネのことは心配するな、

と豪語した。



・日本映画最大のヒット作となった『もののけ姫』では、

鈴木敏夫プロデューサーが製作費としておそるおそる、

「今度はちょっとお金かけてもいいですか」

と尋ねてみると、

徳間社長は「いくらだ?」

と聞いてきた。


「16億ぐらいかかりそうなんですが」


徳間社長から返ってきた言葉がすごかった。


「20にしろ」



・アサヒ芸能の元編集者たちはいまでも、

徳間社長の豪快な人柄を示すあの名ゼリフを

口にして懐かしむのだ。


「カネなら銀行にいくらでもある」



★コメント

大物にはやはり魅力がある。

いまの時代でも、かならずそういう超大物が現れると、

信じている。


 

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