◆牧久『満蒙開拓、夢はるかなり(上)』を読み解く



★副題→「加藤完治と東宮鐡男(とうみや・かねお)」



★要旨



・「新幹線生みの親」十河信二は、

満鉄理事時代に満州事変の仕掛け人、石原莞爾と盟友関係を結び、

「五族協和、王道楽土の満州国」建国の理想に燃えていた。



・このころ、加藤完治は奉天で石原莞爾と会い、

ソ連国境沿いに日本人の開拓移民の必要性を訴えていた軍人・東宮鐡男を紹介され、

意気投合する。



・「狭い日本国内で土地を持たない農家の二男、三男を自作農化するには限界がある」

と満州への移民を考えていた加藤に対して、

東宮は、

「ソ連の南下を防ぐための屯墾軍の入植」を考えていた。



・十河は帰国すると、満州で知り合った加藤完治を訪ね、

青少年義勇軍内原訓練所の青少年たちの純粋な志に感動、

彼らとしばしば膝を交えて意見交換をし、

また加藤らが創設した「学生義勇軍」の会長も引き受けた。



・東宮鐡男は戦死すると大佐に昇進、

1938年には満州国協和会内に「東宮大佐記念事業委員会」が設置され、

『東宮鐡男傳』の刊行が決まる。

これが東宮哲哉の父、東宮七男と、

その家族全員の人生を大きく変えることになった。



・東宮七男が執筆、編纂した『東宮鐡男伝』は

A5判950ページの大冊である。

その内容は普通の伝記とは趣を異にし、

伝記編、遺稿編、寄稿編と分かれていて、

そのほとんどは鐡男の人物像と彼の業績を知る人たちの証言を

生のまま記述したものである。



・遺稿編では中学時代から軍隊に入隊以降もずっと付けていた日誌や

書簡なども含み、東宮鐡男に関する客観的な「一大資料集」となっている。

従兄弟の七男が編纂したにもかかわらず、

鐡男の生涯に対する評価は一切、避けたとしか思えない。



・石原莞爾はいずれ東宮鐡男が一段と評価される時代が来る、

と確信していたのだろう。

編纂した七男は、この石原莞爾の意見をそのまま取り入れ、

資料集としての『東宮鐡男傳』をまとめた、と見てもよい。



・鐡男が6歳のとき、母は病死した。

母の死もあってか、他の子どもと違っていたのは、

どこに行っても神社、仏閣の前を通ると必ず頭を下げ、

礼拝するようになったことである。

それは終生、変わらなかった。



・東宮鐡男は広東で、その後の人生を大きく左右する、

もう一人の人物にあっている。

中国留学して半年が過ぎた7月中旬、

北京公使館付武官だった河本大作(当時中佐)が広東視察にやってきた。



・河本は、シベリア出兵が始まると

ウラジオストック派遣軍のシナ関係部門担当の参謀として、

ウラジオに進駐する。

駐留1年半の間にザバイカル付近まで足を延ばし、

反革命派(白軍)と革命派(赤軍)の激しい戦闘を目撃している。



・その体験は、中国通として知られていた河本に、

「ロシアを支配する新しい革命政権こそ、

これからの日本が見守らねばならない相手である」

との目を開かせたのである。



・河本は以後、「シベリア戦史」の研究に没頭し、

「ロシアの野望、恐るべし」との確信を持つようになっていた。

短かったとはいえ東宮も同じような思いを抱いてシベリアから帰還した。



・1945年8月15日正午、

青少年義勇軍の生みの親、加藤完治は天皇の玉音放送を、

内原の訓練所の職員たちと整列して慟哭しながら聞いた。



・彼はかつて安城農林学校で教鞭をとっていた頃、

東大教授・筧克彦の講演を聞いて感激、

筧の説く古神道に心酔した天皇制農本主義だった。



・彼は翌日から終戦の詔勅を毎日、繰り返し読み返した。

天皇は詔勅で、

「どんなに苦労しようとも、国民は生きて戦後の復興に力を尽くせ」

と説いていた。



・東京裁判の米国検察陣は、

「青少年義勇軍は侵略的植民だったのではないか」

と加藤を取り調べた。



・加藤完治は、少年たち一人一人に手渡した「義勇軍手帳」を示して、

言った。


「古の武士に敗けるな。他民族を敬せよ。

苦は己に引き受け、楽は他人に譲れ、

と書いて可愛い子供を教育し、満州の未墾の荒れ地に送り込んだ。

その荒れ地を耕して自作農になり、

実った作物を内地にも送れば、現地の中国人にも売る、

そうした植民をした国が世界のどこにある」


→検察陣は、加藤の追及を止めた。



★コメント

歴史の奥深さをみた。

学びたい。