◆牧久『不屈の春雷:十河信二とその時代・上巻』を読み解く





※要旨



・国鉄総裁として悪戦苦闘しながら

東海道新幹線の実現に漕ぎ着けたのは、

間違いなく十河信二(そごう・しんじ)であった。



・新幹線計画が世に出たとき、

「戦艦大和、万里の長城、ピラミッドという『世界三大バカ』に並ぶ愚挙」

とも揶揄された。

十河の信念と決断がなければ新幹線は生まれなかった。



・1964年の新幹線開通を1年半後に控え、

十河は「石もて追われる如く」国鉄総裁の座を

去らなければなかった。



・明治42年(1909)年、

鉄道院に入って以来55年。

師と仰ぎ続けた初代総裁、後藤新平や、

彼を継いだ仙石貢、鉄道技師の島安次郎ら先人が思い描いた

「広軌新東海道幹線」の夢がやっと1964年に実現したのだ。



・十河は事あるごとに現場に出かけて、

現場職員の声に耳を傾けた。

そこでも自分の意見を曲げることなく、

カミナリを落とし続けたが、

彼の話を「もっともだ」と納得する現場職員が多かった。



・私は、西条図書館の会議室に積まれた十河信二の資料の山を

原朗や十河光平たちと点検している時、

片隅にうずたかく積まれた仮綴の文書に気付いた。

全部で19冊。

めくってみると、原稿用紙にびっしりと書き込んだ

十河信二自筆の原稿とメモ類である。

なかには十河が口述したものを秘書が

清書したらしい原稿も含まれている。



・大部分は国鉄総裁を辞め、

ヒマになった頃に書いたと思われる。

私は夢中で読み始めた。

子供のころの思い出。

ストの先頭に立った西条中学時代。

一高、東大時代の記憶。

後藤新平との出会いと鉄道院に入った頃。

関東大震災と復興院疑獄。

政友会幹事長、森恪(もり・つとむ)との交友。

満鉄理事時代の石原莞爾との交友と満州事変。

林銑十郎内閣の組閣参謀長の裏話。

吉田茂との東条内閣打倒計画。

十河信二の日本の近現代史へのかかわりが、

裏話まで含めて詳細に書き連ねられていた。



・後藤新平は、四国出身の頑固で生意気、

物怖じしない24歳の若者である十河信二に、

余人の持ち合わせない素質を見出した。



・この年、後藤新平は51歳。

「一に人、二に人、三に人。人材こそ最大の財産である」

という信念を貫いた百戦錬磨の「人間道楽」である。

縁もゆかりもない若い十河に対等に議論を吹っかけて挑発し、

その人物を見抜いて鉄道院にスカウトする。



・大風呂敷の半生。

「後藤新平は、医師から政治家となった天才的なアイデアリストで、

いろいろなアイデアが不断に頭の中に縦横にひらめいた。

人は常に新天地の開拓を志さなければ、

進展して止まらない世界から取り残される、

ということを常日頃から教わった」

と十河は言う。



・課長組織「火曜会」の結成。

鉄道省において、十河信二と種田虎雄が

留学先の米国から帰国前、ニューヨークで会い、

2人が固く申し合わせたことの一つが、

外部からくる政党の圧力にどう対処すべきか、

ということだった。



・十河が会計課長、種田が旅客課長に就任すると、

この米国での申し合わせが具体的に動き出す。

2人が幹事役となって課長クラス中心の「火曜会」という

研究会を発足させた。



・鉄道省も縦割りの組織で、

各局のラインだけで相談し政策を決定している。

鉄道事業は総合的な事業であり、

横の連絡を密にし、

各局が意見を出し合って、

その上で計画を練らなければならない。

それが出来ていないから、

いろんな外部の運動や政治的圧力に曲げられてしまう。

これが2人の問題意識だった。



・火曜会は各局の課長中心に2,30人近くが参加し、

毎週火曜日の退庁後、

東京駅のステーションホテルに集まった。

局長たちは排除したが、

のちに局長になった人はほとんどが

火曜会のメンバーだった。



・火曜会は鉄道省の抱える重要な問題について

自由に議論した。

派閥をつくらないために、

「結論は出さないことになっていたが、

自ずと結論は出た」と十河はいう。



・火曜会で議論された問題は、

各局の課長がよく理解していたので、

能率もグンと上がった。



・盟友、森恪との出会い。

十河は森についてこういっている。

「米国で教育をうけ中国人に接触し、

中国人の権謀術数を習得し、

一面において後藤新平のアイデアリスト的長所を有すると同時に、

他面において仙石貢に似た豊かな実行力を有する男。

彼の人生ベースは実に広大無辺である」



・十河は鉄道官僚としての仕事の傍ら、

絶えず森と密接な連絡をとり、

毎晩のように森の私邸を訪ねるようになる。

語り合うたびに、2人は意気投合し、

信頼関係を増していった。



・森恪は、19歳のとき三井物産の

「支那修業生」に採用され、上海に渡る。

主として、中国語、英語、商業実務を学んだ。

成績抜群だった森は2年間で修業生を終え、

社員見習となる。

森はその後、ニューヨーク支店勤務となり、

英会話にも困らず、株で大儲けする。

その後、孫文の革命を支援し、

辛亥革命の裏で活躍することになる。





※コメント

圧倒的な人物である。

これほどまでに明治の男を久しぶりに見た。

意志の強さの大切さと、その作り方を知った。