◆牧久『特務機関長・許斐氏利(このみ・うじとし)』を解説します。
★副題→「風せきれきとして流水寒し」
★要旨
・人間の生涯というものは、自分が生まれ育ち、生きた時代から逃れることはできないものだ。
荒々しい時代は、荒らしい人間を生む。
・近年、「約束を守る」という人間にとって極めて基本的な道義心さえ、失われているのではないか。
・日本経済新聞記者だった私は、1975年3月、
「ベトナム特派員」の辞令を受け、南ベトナムの首都サイゴンに赴任した。
・日々、悪化する戦況取材に振り回されていた3月中旬。
日経支局に「サイゴンOCS社長、許斐氏連(このみ・うじつら)」と名乗る男が訪れた。
・彼について、古くからベトナムに在住する残留日本兵の何人かに聞いた。
「あの人の父親は、むかし、ハノイにあった『許斐特務機関』のボスだったひとですよ。
その配下は、いまだに東南アジア全域に残留している、と聞いていますよ」
・私はこの時、はじめて「許斐機関」という名前を耳にする。
旧日本軍の亡霊が、突如、目の前に現れた気がした。
戦後30年も経って、それも日本から遠く離れたベトナムで、
旧軍隊の諜報・謀略機関である「特務機関」がまだ生きているというのである。
・特務機関は、軍が表立って行うのを憚る特別な任務に従事した。
わかりやすく言えば、情報収集のためのスパイ活動や謀略的な暗殺、テロ、
攪乱、抵抗勢力に対する慰撫や懐柔工作、さらに隠密裏の軍事物資の確保、
輸送などに関わるインテリジェンス組織、といってもよいだろう。
・人の生涯は、幼少期から少年期にかけての家庭環境や教育環境、
さらに育った土地の風土によって大きく左右される。
・許斐氏利は、福岡県・宗像大社を護る「許斐城」の城主の末裔として
「許斐家」再興を託されて育ち、荒々しく強い「武人」であることが求められた。
・特務機関員教育。
・昭和12年、新京入りした許斐氏利と井上磯次は、
関東軍司令部に田中隆吉中佐を訪ねた。
田中は当時、関東軍第二課参謀として「情報」を担当していた。
・田中は言った。
「君たちには、やってもらわにゃならない仕事が山ほどある。
命令があるまで待機して、大陸情勢を勉強してくれ。
特務要員としての心得は、明日から係りの将校が手ほどきする。
毎朝6時には司令部に出てくるように」
・氏利が大役を果たした後、長勇は、許斐氏利を上海に送り込む。
「しばらく上海で遊んでいてくれ。
いずれそのうち、上海は日本の対支工作の心臓部になる」
→日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件が起こる直前の
昭和12年夏のことだった。
★コメント
凄まじい時代である。
現代の教訓になることがたくさん詰まっている。