◆秋山香乃『足利の血脈。足利で紡がれるもう一つの戦国史』を読み解く


★要旨


・永享十二年(一四四〇)三月、日光に遅い春が訪れている。
三兄弟の父、鎌倉公方足利持氏が憤死したのは一年前の二月だった。


・室町殿こと足利六代将軍義教の命を受けた関東管領上杉憲実との合戦に敗れた末、切腹させられたのである。
共に起った嫡男義久も切腹、
妻は鎌倉の屋形で焼死した。


・残る持氏の遺児、
春王丸、安王丸、万寿王丸は鎌倉公方家に仕える忍び、
さくらの一族に守られ日光山に逃れた。 


・さくら一族の先祖は日光山で修行する修験者だったが、
修験者がもたらす情報に目をつけた足利尊氏に見いだされ、
その忍び集団となった。


・尊氏は四男基氏を鎌倉公方として下向させる際、
さくらの一族を鎌倉公方家を守護する忍びに据えたのだった。


・京から逃れた万寿王丸は、
信濃の豪族大井持光に匿われた。
宝徳元年(一四四九)、八代将軍義成(後の義政)の諱を授けられ、成氏として元服した。 


・また、義教死後から関東の諸将が幕府に鎌倉府再興を嘆願し続けており、
成氏元服を機に許される。


・同年、鎌倉府が再興されると、成氏は公方として鎌倉入りする。
兄春王丸から託された鎌倉公方家の血を絶やさず、誇りを蘇らせたのだ。 


・鎌倉公方となった成氏は関東管領を務める山内上杉家、
扇谷上杉家と対立、享徳の乱が勃発した。


・乱の最中、成氏は本拠を下総古河に移し、以後、古河公方と呼ばれ、
基氏以来の足利の血脈を伝えてゆく。


・もともと鎌倉公方の職は、
足利将軍の初代尊氏の子、基氏の子孫が世襲していた。


・やがて鎌倉公方は京の将軍と対立して滅ぼされたが再興し、職も継ぎ続けた。 
その後、八代将軍の足利義政は、
鎌倉公方の内紛に乗じてこれを攻め、下総古河に逐った。


・また兄の政知を新たな鎌倉公方に任命して東へ送った。 
ただ関東の諸人は古河に移った旧の鎌倉公方を慕い、政知に従わなかった。


・政知は伊豆堀越を拠点として古河方と長く抗争したが、
京で応仁の大乱が始まって義政の支援も得られず、和睦となった。 
鎌倉公方は古河、堀越に並立する。堀越方は伊豆一国のみを領国とする。 
誰が見ても不可解な条件で、両鎌倉公方は和睦した。


・京の意向に踊らされ、実質的に古河に敗れて小さな伊豆一国に押し込められた政知は、
鬱屈を募らせた。


★コメント
あらためて、
足利氏のつながりの複雑さ、
とおもしろさに気づかされた。


★秋山香乃
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