2024/07/20 (Sat)

土日は就労移行支援事業所はお休みの日だ。関東の梅雨はすでに明けた。

 

剣崎は8時前にいつもの自販機で缶コーヒーを買いに出かけた。こんな時間でもじりじりと照り付ける日差しが強い。だが、梅雨が明けて間もないことや、朝スッキリ目覚めたこともあって、太陽の日差しが一日の活力を私に与えてくれるように感じる。家に戻って昨日の小説の書評の続きを書いた。

 

ベストセラーの作品は、あまりに情報が流布していて、そうした情報で私自身バイアスが掛からない様、極力見ないで感覚を研ぎ澄ませて自身の率直な感想を語る必要があった。物語の解釈は読者数分だけ存在する。一般論ではなく批判を恐れず自分の言葉で語ることが、聞き手に新しい気づきを与える。少なくともそうしたスタンスが必要であると考えている。

 

また、死や性描写について。主人公ワタナベの内面心理を語る上で、本作では重要ポイントである為語らなければいけないと思っている。もしかしたら、不快に思われる方がいるのかもしれない。

 

長編小説『ノルウェイの森』上巻下巻を読み終えて、主人公のワタナベの心理を中心に沿って語ってみた。

 

生者として再出発するワタナベには強く生きてほしい。そしてレイコさんの言う通り、ほんの少し直子とキズキの死の痛みを感じながら。きっとワタナベなら強く生きていけるだろう。

 

私は後編のストーリーを(主人公)ワタナベを中心とした世界のその心境に寄り添いながら、記憶の限り振り返ってみた。

 

山奥の療養所での直子と支援者レイコの共同生活から離れた。直子の精神的な病状が良くなって、現実世界で再び一緒に生きていくことを、誓って別れたように思える。再び寮に戻って外の世界(日常)へと戻る。ワタナベは大学2年の19才。父を亡くし彼氏と別れた緑との関係性が深まった時期。その間の現実世界でも直子へ幾度となく手紙を書き続けていた。キズキの死が遠い昔のようになった。ハツミさんは永沢さんと別れた。ハツミさんはかけがえのない特別な愛すべき女性なんだと語った。後にハツミさんも自ら命を絶った。

 

ワタナベにとって外の世界は、のっぺらぼうで無機質で馴染まなくなっていた。11月に20回目の誕生日。吉祥寺でアパートを見つけての一人暮らし。ワタナベは無事進級し、大学3年の春を迎える。直子の病状は悪化の一途だった。緑との関係性を持ちつつも、毎週のように手紙を直子に書き綴り、ポストに投函する日々。直子との逢瀬を待ちわびる日々。

 

でも直子は自ら死を選んだ。そして、ワタナベは山陰の海岸へと放浪の旅に出た。心配して声をかけてきて、夜を共にした漁師のやさしさがあった。しかし誰が何と言おうと、直子の喪失の哀しみは、海岸のさざ波のように打ち寄せてくる。

 

私が一番心に響いて、忘れてはいけない教訓ともいえる言葉があった。

 

「我々の生のうちに死が潜んでいるのだ」

 

直後、私は日本国内の年間自殺者数の報道を想像した。

 

私は思った。ハツミさんの時もそうだった。「生は死の対極にある」のではなく、私たちが日々日常幸せそうに暮らしている人々の顔、彼ら生のうちに(死は)潜んでいるとやはり思う。例えば、渋谷のスクランブル交差点に出かけてみると良い。若者がにぎやかで一見幸せそうに生き生きしているようだ。そのあちこちにある顔・顔・顔に生の表情は見えていても、奥底にある彼らの物語には「死があちらこちらに潜んでいる」だろう。つまり、生物学的、物理的な突然死ももちろんある。精神的には何かしら、人間は思い悩んでいて、死は身近に存在するということだと考える。私の感覚では、加齢による死とメンタル疾患におけるそれを考えると「生と死がグラデーション状に連続している」ほうに近い。

 

また、性描写についても語る。

 

ワタナベはずっと会えない直子に対して性的な欲望を抱き続ける。直子死後はさらに欲望を増していった。直子と交わったその感触を精緻に脳内で再現しながら、マスターベーションすることが幾度とあった。人間というのは、心が不安定な時、人間は何かに依存する。それが性衝動だったり、ギャンブルだったり。それが性的衝動に基づいた本能の部分を描写している。性衝動に関しては、恋人と別れて、ワタナベとずっと共にすると誓った緑も同様だった。

 

そして、私は次のような冷静な分析もしてみた。

 

1970年前後の世界はシンプルだった。しかし、人間の深層心理はそれほど変わってないように思える。現在は、希薄な人間関係が強い世界と言われる。しかし1970年代はおそらく、人間関係をその度合いで分類するなら「1.希薄な人間関係」「2.適度な距離のある人間関係」「3.濃密な近すぎる人間関係」となりそうだ。本作ではワタナベ、直子、直子と支援者のレイコ、キヅキ、緑、永沢、ハツミといった人物がその人間模様を映し出している。私の主観では2の日常が主役たちの周囲で展開され、彼らの共有する世界のみ「濃密な近すぎる人間関係」といったところか。整理すると本作では、主観では1が5%、2が45%、3が50%といったところか。3は時として悲劇を生むことが想像できる。しかしそうした想像もネガティブバイアスの一種なのかもしれないし、単なるフィクションとしての悲劇を作者が展開することで、我々に訴えているだけなのかもしれない。

 

最後は上野で、「生の再出発」の場面。恋人緑に電話を掛けて、自分がふとどこにいるのか?我に返るところで終わっていた。繰り返し、ワタナベには強く生きる道を願って、ささやかにエールを送りたい。

 

本書は、半世紀前の時代背景である。私は次に現代版『ノルウェイの森』が読みたい。異性と接すること、人間の死に直面することも含め、人間関係の希薄化と言われる現代である。月並みかもしれないが、小説によって登場人物に寄り添って、疑似体験しながら、彼らの心理に接することが出来るのは有り難いと思う。ここに作者村上春樹さんに敬意を表したい。

 

 

「そうだ、昔の世界はもっとシンプルだったんだ。」

 

スマホもパソコンもない時代は、情報のコミュニケーションは、行き交う情報がシンプルだ。そして、感情のコミュニケーションも過度に他者に気遣うことなく、シンプルに感情をぶつけ合ったと思う。もちろんそれで傷つけ傷つき合うのは良くない。逆に今はそうしたハラスメントを恐れて、人間関係が希薄になってしまったのが寂しい。

 

社会復帰も出来ず、無職期間が長い剣崎は、天涯孤独だった。でも「モノ書き」として、こうして書くことで、孤独を快適に過ごすことが出来ている。

 

そうだ、俳優であり、私は作家でもあるんだ。