「人の人生を変えようとする言動」ほど腹立たしいことはないと感じる。

人のために尽くす言動は良いことと思われがちだが、単なる自己満足というケースも多々ある。

苦しんでいる人を見かけたらすぐに手助けをする。それは誰が見ても明らかに良い行いかもしれない。助けられた人もその時は喜びを表すかもしれない。

しかし、その人にとっては一時の救いにしかならないこともある。


本当は甘えているだけで苦しみを打開するために日々努力していたかもしれない。

そんな中で人から手助けされ、他の楽な選択肢を与えられ、快適な環境が出来上がってしまったら、努力どころか無気力の苦しみに襲われ、さらに自分を手助けしてくれた人に対してその期待に応えなければと、大きなプレッシャーを感じてしまうこともある。

自己満足であっても人のために尽くせるならそれは良いことかもしれないが、それで人の人生を動かそうとする言動は間違っている。

自分のタイミングで人の人生を変えることなどできるはずがないし、変えようとすること自体がおかしいと思う。

国を変えたい、家族を変えたい、人を変えたい‥そんな願いが叶うならとっくに全てが変わっている。


結局、何かを変えたいと思うなら「自分が変われよ」という話で、そもそも教育を行う以前にまずは自らが「手本となる後ろ姿」を見せないと、知識や理屈だけで人の人生に正当な言動を放っても相手に不快感を与えてしまうだけだ。

だから想像力を持たないと「気の毒な人=不幸」という発想から、自分を省みずに、何でもかんでも自己満足で人の人生を動かそうとしてしまう。

その人のためにやったことだから‥誰が見ても間違ってないし‥自分は常に正しいんだ‥という姿勢は、一見まともなようだけど、個人的にあまり好ましいとは思わない。

子供の頃から結果や形式だけを見られていて、自分も同じように周りを見ていた気がする。

結論の最終地点での会話でしか接触されないと反発心しか生まれない。

おそらく自分は「寄り添ってほしかった」のだと思う。特に親からは。

というのも自分には人と共に共存共栄する心が欠落している。形式的なふるまいと心の中身に差がありすぎる。

心が素直じゃないから、やりたいことを我慢してしまうし、やらなければいけないことを拒絶してしまう。

もっと素直な気持ちを大切に生きられれば、形式や結果が伴わなくても、さほど不満や愚痴を口にすることもなくなるのかもしれない。

一朝一夕に変われるものではないが、変わろうと努力する過程に学びがあるはずだ。


形式だけの心無い対人関係もあるとはいえ、素直な心で向き合えば素直な心が返ってくるだろうし、そういう目に見えない因果を大切にできるようになりたい。

自分が恐怖心を抱えて人と接していると周囲もその雰囲気を察して距離を置くだろうし、人の悪口とかも負の連鎖で広まるから聞こえなくても伝わってしまうものだと思う。

物質や形式は生きた心の果てについてくるのであって、最初から理想の最終地点に踏み込むべきではないと感じる。

分相応の自分を内観することで、今日何ができるかが見えてくる気がする。