私は、教会に寝泊まりしておりますので、サムエルのように夜中にハッと目が覚めて主が語られる時があります。
それで、『はい。主よ。しもべは聞いております。お語りください。』と言って、祈りとイタコの霊媒師のように神様と対話し始めます。ちょうど予見者だったモーセの姉ミリアムとサムエルを足したみたいな感じです。
最近、対話し続けたことを持ってブログを再開せよと言われましたので書きます。皆様の信仰の糧になれば幸甚です。
死ねば性別はないこと
よく言われていることですが、死んだら性別の縛りから解放されます。その代わりに人生の営みや子孫継承など地上の使命に再度関わることも出来ません。死者にはもう何もないのです。見守ることしか出来ません。だから生きている間に一生懸命に生きよと言われます。性別に対する葛藤などトランスジェンダーに関わることの多くはその人自身と神様との関係、恵みと罪の関係によることです。その人がどちらの性別に生まれても地上での使命が変わるだけで本質的には性別はないので、地上での使命と神様との関係での葛藤に集約されます。なので、ソドムとゴモラは罪だとされます。これは神に対する罪なので、人間レベルの問題ではなく、まして社会問題のレベルでも実はないのです。私たちの本質はエバを内包したアダムであり、性別は一つに融合されています。私たちは花のように男に生まれておしべとなり、女に生まれてめしべとなる花です。仏教でも死んだ世界や悟りを蓮の花に表現します。死んだ世界と花は似ています。男に生まれたのに、女の感覚が呼び出されてトランスすれば、ゲイとか中性とかになっていくと思います。
4世紀のニュッサのグレゴリオスは「神はその予知力によって人間の像に男性と女性との区別を付け加えたのです。その区別は神という原像と何の関係もありません。なぜなら神は男でも女でもないからです。」
6世紀の聖マクシモスも「原罪が生じるのを見越した神によって男性、女性という区別が生まれた。」と語り、
人間は第一に「性の区別」を廃し、
第二に「天国と地」を統合し、
第三に「天地と宇宙」を統合し、
第四に「知的世界と霊的世界」を統合し
最後に「神と一致」し、神性の豊かさを受けるという使命が与えられていた。
ところが最初の第一のアダムが失敗したので、第二のアダムであるイエスキリストがその務めを果たしたのです。
ですから昔の教父たちもすでに性別は越えるべきものとして考えられていたのです。トランスジェンダーの答えを昔の人々はすでに知っていたのです。
変化の者はいること
主と話していて面白いことがあります。日本昔ばなしにあるような変化の者たちも事実いるということです。鶴の恩返しの話とか。浦島太郎の話は物理学でも引用されるほど有名ですね。神様はなんでも出来るので特段驚きこそありませんでしたが、もう一度子供に帰って日本昔ばなしを研究しても面白いかと思いました。最近、日本でも女体化とか擬人化などという作画流行がありますが、裏では変化の者たちがいるかも知れませんね。日本には百鬼夜行という言葉もありますからね。かく言う私も人間の霊ではない、悪魔や天使と話しており、トビト書のトビトのようでもあります。変化の者が人間社会にいると言われても特段驚きはありません。そういう証言をされる方も多いです。人間以外の存在もたくさんおり、だからこそ人間を特に愛されたという聖書の神様が腑に落ちるのです。人間が神様に逆らっても可愛いものですが、地を揺るがす竜が刃向かったら地上の弱い存在が苦しんで迷惑するからです。力あるものは逆に迷惑です。天津神と国津神の日本神話の話は完全にサタンの外伝みたいなものだと思います。これらの神の正体はエノク書の物見の反逆天使たちであり、ネフィリムたちだと感じます。実際に変な悪霊として彼らに関わった経験があります。彼らは本姓から嘘つきなのです。反省することなどなくまた新しい現代神話や芸能世界を作っている。
ハレルヤ!