Spiros Zodhiates というギリシャ語学者が面白いことを書いてました。
記憶ですがこんな感じの内容です。
ギリシャ語には愛を表す単語でアガペーとフィリアがある。
現代の注釈者はアガペーとフィリアを個別のもののように説明することがあるが,それは言語的には間違いで,実際にはアガペーは「愛」という大きな範疇を言っているにすぎない。フィリアは「愛情」とも訳され 友情を表現するために使われるが 愛(アガペ)はもっと広い意味での愛である。
要するにアガペーを「原則に導かれた愛(jw.org)」という固定概念で考えるのは言語的に間違っているということです。
聖書は愛について語っていますが,それは小難しい解説が必要なものではなくて当時のギリシャ語を話す人が日常使っていた言葉であり,いちいち「原則に基づく愛」などと考えていなかったはずです。
「汝の敵を愛せよ」というキリストの言葉は「汝の敵」という対象物が書かれていますが,それはアガペーの言葉の意味を説明するものではありません。アガペーはあくまでも日本語の「愛」英語の「Love」とほぼ同じ意味です。
なぜこんなことを書くかというと
愛について「原則に基づく愛」という概念を持つことで副作用もあるように思えるからです。
会衆の中で何かのきっかけで冷淡な態度をとられるようになったとかいう経験を聞くことがあります。組織内での友情がもろいものであったということを痛感させられるような経験です。
冷淡な態度が「原則に基づく愛」という言葉で正当化されていたりしないでしょうか?
愛は愛です。
聖書が教える愛は「自分にしてほしいことを人にもする」ことです。とてもシンプルな教えです。
気を付けないと「原則に基づく愛」が結果として 自己中心的な愛(本来はそのようなものは存在しない)になってしまうことがあると思います。
お知らせ:ehoba.net に「鍵っ子(ソフィア)」がアップされています。


