これは「わたしの聖書物語の本」の9話「ノアは箱舟を作る」に描かれている挿絵です。

ぼくはこれを見て不思議に思うことがあります。
ここにはキリンやカンガルー,それにオオアリクイまでもいます。これらの動物はノアの物語の舞台になっている中東には現在存在しませんし,かつて生息していたことを示す化石の証拠もありません。ですから,これらの動物たちすべてを「それぞれ二匹ずつを箱船の中へ携え入れる」(創世記6:19)という命令に従うのは容易なことではないでしょう。ですから,この絵にあるように奇跡的に遠方から動物たちが自ら集まってきたということになります。これはまさに奇跡です。
それなのに
そんな奇跡が起きているのを背景に,なぜかみんな笑っているんです。

なんて邪悪な奴らなんでしょう! ・・・と思いますか?
でも,ぼくは逆に「人間って,そんなに分からず屋で,奇跡を目の前で見ても笑ってられるもんなんだろうか?」と疑問に感じてしまいます。
聖書の中には,やたらとトンデモなく邪悪な人たちのことが描かれています。
ソドムとゴモラでは,ロトの客人を集団でレイプするために「少年から年寄りまで,民のすべてがこぞってやって来ます」。
こんな奴ら滅ぼされて当然だ! ・・・と思いますか?
ぼくは「何かが違うんじゃないかな」と感じてしまいます。
ぼくも人生の中で,いろんな人たちに出会ってきて,悪い人たちがいることはわかります。でも,目の前で起きる奇跡を見て,それを気にも留めないような人はなかなかいません。
聖書によると,エホバの次の一言で彼らの運命が決定づけられました。
「わたしは,自分が創造した人を地の表からぬぐい去ろう。人から,家畜,動く生き物,天の飛ぶ生き物にいたるまで。わたしはこれらを造ったことでまさに悔やむからである」。-創世記 6:7

目の前の邪悪な人々
ものみの塔出版物を見ると「神が世を滅ぼす」というシンプルな表現が出てこないことに気が付きます。
必ず「神が邪悪な世を滅ぼす」とか「サタンの邪悪な世を滅ぼす」といった形容詞がついています。
例えば以下の引用をご覧ください。
*** 塔10 9/1 9ページ 悪が終わることは保証されている! ***
サタンは間もなく除き去られます。さらに,邪悪な歩みを改めることをかたくなに拒む者たちも一掃されます。その喜ばしい時代に生きるのは本当にすばらしい経験となるでしょう。
かたくなに拒む者?
これは何を主張しているのでしょうか?
実のところ「邪悪な歩みを改めることをかたくなに拒む者」とは,つまり「伝道に来たエホバの証人の話を信じない人」あるいは「ものみの塔の教理を真理として受け入れない人」を指しています。
なぜいつも率直な表現が使われないのでしょうか?
以前に見たデンマークの映画でエホバの証人を主人公として描いたものがありました。その中で幾つか印象的な場面があります。


弟は,滅ぼされる人が可哀そうだという感情を言い表します。
すると姉たちはキリストが滅ぼすのは邪悪な者だけなのだという考えを伝えます。そして家族の研究の場面は無事に終わります。


ブティックで買い物をしている場面で突然予期しない質問を受けます。「世の終わり」に関する質問です。
目の前にいる善良そうな人々を指して「この人も間もなく死ぬのか?」「この少年も親がエホバの証人にならないと殺されるのか?」と尋ねられました。
最初は聡明に答えていた彼女でしたが,途中で答えることができなくなります。そしてその場をさります。キリストが邪悪な者だけを滅ぼすという信念と答えるべき内容とが不協和を起こしたのでしょう。
彼女も聖書のノアの洪水を引き合いに出し,善良な人を救うために「邪悪な者たち」を子どもたちも含めて虐殺することは神からみて正しいことであるという主張をすることもできたことでしょう。
しかし,彼女はそうしませんでした。彼女の目の前にノアの洪水前の人々として想定されているような邪悪な者たちが存在していなかったからです。
以下は同じ内容の記事です
http://ehoba.net/wicked_people/