ちょっと長くなるけどどうせしばらくしたら消えるだろうから引用
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ニコチン依存と喫煙
強いプレッシャーがかかっていたからタバコを吸ったり飲酒したりした、という説明に説得力はあまりない。なぜなら、プレッシャーを軽減させるためには、過去にタバコや飲酒によってプレッシャーが軽減されたという経験がないと手を出さないと考えられるからだ。そのため、今回限り1回だけだったという説明にも疑問が残る。
もちろん、上記法律にあるように、もし本人が吸ったことがなかったとすれば、喫煙や飲酒を勧めた人にも大きな責任がある。だが、特に喫煙習慣はニコチン依存によってもたらされ、いくらプレッシャーにさらされたからといって、それまで吸ったことのない人が行動規範違反をしてまで手を伸ばすことは考えにくい。
重圧のかかるトップアスリートのメンタルヘルスとその管理は重要だが、タバコや飲酒によってメンタルヘルスを健全に保ち、管理できるという証拠はない。ニコチン依存になるとニコチン欠乏によるストレスがかかり、タバコを吸うとそれが解消され、あたかもプレッシャーから解放されたように感じるだけだ。
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この部分以外のこの記事が指摘している受動喫煙だの依存症だのという話は正直どうでも良い。
この記事のこの部分の指摘、
「過去にタバコや飲酒によってプレッシャーが軽減されたという経験がないと手を出さないと考えられる」
この指摘が全くそのとおりだと思わされた。
喫煙も飲酒も全くしなかった未成年者がプレッシャーからの解放のために、
ましてや国家的期待感がかかっている五輪行きのプレッシャー解放のために、
よし今まで一度もやったことないタバコを吸って酒を飲もう!と考えるやつが果たして本当にいるのかという話だ。
そもそも体操選手本人が一度も釈明せずに協会の人間だけが対応にあたっていること、1ヶ月前とそこそこ時間の空いた以前の問題が蒸し返されていること、事実の解明よりも起きてしまった過去を何とかダメージなく封印しようという意図の方が多いように思われてならない。
話を戻して、今回の不祥事が実は初犯ではなく常習的なのだとする上述の記事の指摘どおりだったとするなら、たった1回だけしか悪事に手を染めていないとする協会側の説明は大人の事情で嘘をついたということになり、また世間の反応でたった1回だけで五輪行きの夢を断つのは酷すぎるという反応もまあまあわからなくもなる。
一番無難な現実的着地のように思えたのでこの記事を引用させてもらった。
これが真実なのかどうかはもちろん裁判レベルの事実認定がないとなんとも言えないが、どう考えても腑に落ちない要素がこの問題にあることだけは確かだ。
この名も知らない体操選手の問題だけでなく、およそ世の中で起きる事件の中で、肝心要の事実が伏せられたまま世に知られる事件というのはままある。
殺人事件一つ取ったって、裁判では数ヶ月から1年以上かかるのだ。
殺す側と殺される側双方の事情を詳細に斟酌したうえで、どちらが悪かったのかと客観的に裁決するまでにそれだけの司法リソースと時間を要するのだ。
でもメディアでは事件自体は大々的に報道するものの、肝心のその事件の起点となった問題や原因、材料は何かを提供することは全く無い。
新聞しかなかった過去ならいざ知らず、今ではネット配信などいくらでもあり、またマスコミの取材力を持ってすればその周辺情報などいくらでも得られ、またそれをweb上で報道する手段もいくらでもあるはずなのに、ひたすら事件概要だけ報道して詳細は一切明らかにせず、報道後のアフターフォローなども一切しない。
こんなことだから名だたる新聞やテレビ局は凋落の憂き目に遭っているのだろう。
だがしかし、あまり詳細な事実を報道して無駄なコストをかけたり余計な責任を負うのは不要なリスクだという判断もまた経営上はあり得るだろう。
以前であれば、人の噂も七十五日ということで、マスコミが流した事件など3ヶ月もすれば大抵の人は忘れてくれた。
ところが今ではネットがあり、1年でも2年でも過去の事件はソース付きで掘り返され、またメディアが敢えて触れずにいた事実を執拗に指摘し続ける人間も少なくなくなってきた。
そこへマスコミの凋落によりマスコミの取材力そのものが劣化してきているとなると、いうなれば「事実の空白地帯」とでもいうべきものがどんどん広くなっていくことになる。
普通に考えればおかしいと思えるようなことに対し、マスのコミュニケーションがその理由を用意できなくなってきている。
事実を知りたいのに事実が明らかにならないのだからそこにストレスが溜まる。
私もそのストレスに耐えられず、冒頭のYahooニュースの記事の推論が正しいのではないかとする「事実には基づかない想像」を逞しくさせて開陳せずにはいられなくなった。
「なぜ宮田笙子本人が記者会見をやらないのか」という疑問。
その疑問に対し
「自分の過ちにショックを受けて傷ついている未成年をマスコミの前に晒すわけにはいかない」という反論。
そういうことも、実際にマスコミが協会に質問し、実際に協会がそうした反論をしたというのならまだ分かるが、その疑問も反論も一切事実レベルで確認されず、有耶無耶なまま五輪行き剥奪という事実だけが報道されている。
普通だったら詳らかにされるべき事実が、マスコミの大人の事情でそこかしこがツギハギになっている現状。
このツギハギの中から、マスコミ不信が生まれ、現実に対する不信が生まれ、果ては陰謀論などがどんどん生まれていくのではないか。
ネット社会になって、マスコミは以前よりも詳細な事実を提供すべき段階にきているところを、
個人情報保護等々社会が複雑化しすぎてむしろ詳細な事実をどんどん曖昧に有耶無耶にする方向へ加速しているのが現状のような気がする。
人々が事実から疎外されている状態だ。
だから事実かどうか分からない問題が増え、事実かどうか分からない問題を解明する言説がどんどん増えていくことになる。
ファクトチェックという言葉すら自分に都合の良いファクトしか見ないことだと人々が気づき始めている。
過去に比類ない情報へのアクセスが実現した現在で、事実がどんどん曖昧になっていくのは歴史の皮肉としか言いようがない。