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藤島住宅 岩原 賢太郎 の 営業日記

息子が幼稚園生の頃、平日休みの私は朝、息子を幼稚園まで車で送り、午後も早い時間に迎えに行くという中途半端な休日の時間割に不満を抱いていた。

しかし、そのうちに迎えに行くまでの時間の過ごし方にも慣れてきて、毎週の決まったパターンが心地よくなってきたりして、人間の適応能力は素晴らしいなあと、感心したりしていた。

そんな休日の生活パターンにまだ飽きない頃、コロナ到来で目くるめく変化を傍観しているうちに次男が生まれ、長男は幼稚園を卒園、あっという間に私の心地の良い休日の形態は様変わりしていくのであった。

 

長男が小学校に上がると、朝早く家を出た後、彼は15時過ぎまで家に帰って来ない。

2年生にもなると、帰ってきても宿題がたくさんあって、少なくとも1時間、自由になれない。

ある日、長男の学校で授業参観のような行事があって、体育の授業を見学したことがあった。

ボールを使ったゲームをやっていた。

円の中心に段ボール箱が積み上げてあって、その前に一人ディフェンダーの選手がいる。オフェンスのチームは、ドッヂボールのようにボールを投げるのだが、違うのは、ディフェンダーが手薄なところを狙って真ん中にあるダンボールを狙うこと。

見事ボールを当てて倒したら得点、というオフェンス・ディフェンス入れ替え制の対戦ゲームであった。

そのボールを投げる動作が「上手」な子もいたが、長男は「下手」だった。

私は父親として「これは、まずいな」と不覚に感じていた。

 

かくして、翌週の私の休日。

私は、かねてより準備してあったサッカーボールを携えて、近所の公園に長男と一緒に遊びに行った。

普段は連れて行く2歳の次男を家に留まらせて。

 

あまり口うるさく教えるのは良くないと思いつつも、私はボールの扱い方の基本をなんとか長男に体得してもらいたく、ボールをよく見ることや、投げる瞬間までボールに触っている手の感覚を意識することなど、私なりの基本理論を言葉で長男に投げかける。

「そうだ、そう、そう!」

「上手い、今の最高!」

少しでも改善が見られた瞬間に大きな声で長男を褒め称える。

感覚を掴んでほしい一心である。

公園内には小さなお子さんを連れたお母さん達もいたので、綿入は少し「やりづらさ」も感じていたが、ボールがそちらの方に飛んで行かない限り、長男の動きしか目に入らない。

こういう時、お父さんという生き物は、すごい集中力を発揮するのである。

しかしそんな私にとっての充実した時間は長く続かなかった。

 

「あれ?!偶然。奇跡的!」

長男の同級生が二人、公園に現れる。

一人は私も知っている近所の男の子で、もうひとりは知らない女の子だった。

「よぉ!」

私は48歳であるが、長男の同級生に対し、近所のお兄さんのような具合でその同級生に応じる。

しかも内心は、(ちっ、邪魔が入ったな)である。

私としては悪気ないが、「今、いいところ」だったのである。

 

近所に住む小学校の同級生が近所の公園でたまたま会っただけで、(奇跡は大げさだろ)と内心思っていたが、それはやはり大人の擦れた感覚なのだろう。

その同級生は、この偶然にただならぬ興奮を覚えているようで、「キセキ、キセキ」と連発で声を発していた。

一緒に遊びたいオーラを同級生に感じつつ、私はすでに「サッカーにおけるボールの受け方」の講座に入っていた長男との「練習」を続けた。

同級生たちもそれに習って二人でボール遊びを始めていた。

それにしても、彼らもボールを持ってきているあたり、「キセキ」とまでいかなくとも、この町内界隈で起こった小さな「シンクロ」だったのか、このまま別々にボール遊びをすることに私は「違和感」を感じていた。

 

「一緒にやろうよ!」

同級生がついに言った。

断る術はない。

まあ、理由もない。

堅苦しい練習より良い方向に向くこともあろう。

「ドッジボールやろうよ!」

同級生が言う。

 

「4人でどうやってやるの?」と私

 

(ドッジボールならちょうどありがたい。)

私は思っていた。

長男の「ボールの投げ方」について一番気になっていた私は、(ドッヂボールは4人では無理だろ)と思いながら、同級生の頭の中にある「4人ドッヂボール」の絵図に期待していた。

だが同級生は、4人でゲームを成り立たせる具体的なルールや選手の配置までは考えていないようだった。

私は慌てて、ドッヂボールがどういう陣形で行うものだったかを思い出そうとしていた。

(外野がいて、内野がいて・・)

 

「4人じゃ無理じゃない?」

つまらない大人のあきらめを発言。

 

「とにかくやってみよう」

同級生男子の号令。

大人、牽引力弱し。

「まあ、やってみるか」

 

私はこの日、考えるより先に動き出すことの有利性を学んだ。

通常のドッヂボールの場合、内野の選手は四方を敵に囲まれ、常に「はさみ撃ち」にされることでスリリングなゲーム展開になって面白いのだが、2対2の人数では、それが成り立たないと思っていた。

しかし、やっているうちに分かったことだが、一直線で戦えば、なんとか成り立つのだ。

私と長男がチーム、同級生2人との対戦ということになった。

能力のバランスが悪いのでは?と同級生も私も思ったのだが、なんの!

女の子がめちゃ上手い。

先程、長男を褒めたよりも数倍興奮して「すごい!上手い!」と叫ぶ私がいた。

聞けば、「ドッヂボール部」に所属しているとのこと。

そういうものがあるのか。と感心しながら、チーム力のバランスが均整されたこともあり、

私がここへ来る前に妻と約束した帰宅時間を40分以上オーバーしてまで、しばしこのゲームに興じることとなった。

 

その後、次男の面倒をみなければならない私は「帰る」と言ったが、長男は残って同級生たちと遊びたいと言った。

いつの間にか同級生のお母さんが幼稚園生の迎えを終えて公園に来ていて、「ウチの子と一緒にみてますよ。帰りも一緒だし。」と言って下さったので、有り難くお願いしてその場を去った。

 

学校、幼保育園、公園、買物、毎日利用する施設の集合性によるご近所の「コミュニティ」は、「住まい」を考えるにあたって、核となる要素であることを実感する出来事であった。

普段から少しでも地域のコミュニティの輪の中に顔を出すことは、「住まい」に携わる職業に就いている者にとって、その価値を見出し、提案につながる貴重な経験である気がする。

 

ところで、ドッヂボールの日以来、長男は学校から帰ってくると、すぐにランドセルを置いて友達と外へ遊びに出かけるようになった。

実に喜ばしいことではあるが、益々、私が長男と一緒に過ごす時間が少なくなってしまった。

 

寂しいということはない。

ただ、一生におけるひとつの特別な種類の時間がいきなりガバっと取り去られてしまったようで、焦燥感のようなものを感じる今日此頃、諸先輩方(年下も含む)の言う、

「あっという間だよ」という言葉が実感を伴って私の心に刻まれたようである。

 

今日、次男との時間を無為に過ごす日に。