一気に空気が澄みはじめた。秋になった。きのう10月4日に幕切れとなるはずだった秋公演がなくなり、まる一年、舞台活動を停止したことになる。
秋公演は緩和政策のなか葛藤しつつの中止となったが、早春から今までの間に全くの新作の構想が熱をおびて、数日前に初の通しリハーサルを試みた。
稽古の内容も熱量も特異になってきているのか。開催出来ない舞台の準備と始末を通じて、考えさせられることが膨大に出ている。この身体の緊張感は、かつて経験したことがない。たぶん僕にはいま、根っこから踊りを見直す時が来ているのだと思う。
この夏は日本中で、いや、世界中で、沢山の祭りや踊りが中止になった。僕の住む東京でも毎年あちこちで小さな盆踊りがあったが、今年は見事にゼロだった。レッスンやリハーサルの帰り道に太鼓の音がきこえて、もうひと踊りしたり、ただふらりと立ち寄るだけでも、あるいはそんな場所で普段は会釈するだけの近所の人とたまたま会ってちょっとだけ言葉を交わしたりするのも、じつはとても大きな役割があったことに、いまさら気付く。場があること、サイクルがあること、そこには大切なものがあるにちがいないと思えてしかたがない。
もう長くなったこの状況ゆえか、メリハリのない日常性が季節をこえて街を覆い尽くしてゆく感じには、なんだか危うい予感さえする。これから、気持ちを解放する場や時間が、日増しに大切になるのではと思う。
初夏の緊急事態明けからクラスの開講日を少し増やしたが、クラスのたびに、踊ることそのものの大切さが身に染みるようになった。お祭りの踊りとは気分がちょっと違うかもしれないけれど、そこに行けば思い思いに踊れるような、あるいは踊りの空気感にさわって過ごせるような、時間と場所をコンスタントに用意する、それは一番大切に継続したいと思っている。
踊るには人と人が皮膚感覚で関わるという特徴がある。互いが動きを交わし、向き合うこと。言葉では言い尽くせないことを、出すこと、出そうとすること。踊ること、ダンスすることは、存在することを認め合い受け止め合うことでもあるように思う。
人には、いろんな姿勢があり、いろんな迷いがあり、いろんな佇まいがある。ひとそれぞれ、という言葉があるように、人はそれぞれ色々で、その色々を出し切ってゆくのが踊り。ひととひとが、それぞれの色々を呑み込み合って、共に揺すり合うような時間が、踊りの時間なのではと僕は思っている。
踊りの時間が欠けてゆくと、互いを受け容れる余裕がなくなったり、互いの異なる有様をこばむような社会になっていったりするのではないかと、漠たる想像をしたとき、僕は心底から戦慄する。
世の中に不安がひろがってゆくとき、踊りだけではなく、いちばん失ってはいけないものが人と人の皮膚感覚や熱の関わり交わりだし、それを育む場だけは中断してはならないと思う。それぞれが自分を保つためにも、ひとりひとりが生きた思考をするためにも、流されないためにも、、、。
いま僕らは不安を共有しているのは確かだ。多くが同じことで苦しんでいるのも確かだ。こういう状況にこそ、身体まるごとで何かを、と思う。
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