〈オイリュトミークラス〉を6/10(水)から再開しました。

ひさびさのオイリュトミー練習を通じて、身にも心にも新しいエネルギーが注ぎ込まれるようでした。

自粛期間中に試みた沢山のオンライン仕事を通じて、人と人は結局は「会う」ことでなければできないことが多い、特に心のことやコミュニケーションのこと、とりわけ芸術では「会う」ことの重要性を切に感じてきました。

いっぽう、コロナなど予想さえしなかった頃からずっと、踊りの稽古においては、全感覚での対話感と言うか、視聴覚だけでは伝わらないのに同じ場に一緒に居ることで伝わってゆくものがとても重要なことを感じてきました。

それらのことを、オイリュトミークラスの再開では非常につよく確信し直しました。

〈オイリュトミー〉というのはカラダを見せる踊りではなく、カラダを通じて「かかわり」を体現してゆく踊りです。

その稽古は僕にとってはダンサーとして最良のトレーニングの一つだと思って続けてきましたが、いまここにきて、それはダンサーとしてのみならず、一人の生活者として重要だったのではないかと思い直しています。人間関係や、子育てや、自分自身の心の問題にも、実は深いところで強い力になっていたのではないかと、思えるようになってきたのです。

もしかするとこのコロナ禍の状況を経験したからこそかもしれませんが、オイリュトミーとその根にある考えに対して、いま、かなり深く共感し直しています。

僕は、小中学では床体操を、中高で打楽器を、そして18歳からオイリュトミーを習い始め、同時に大学で映画や演劇の演出を勉強し、さまざまなダンスレッスンに通ったりパフォーマンスを開催したりし始めました。やがて自分なりの踊りに専念してダンサー/振付家として活動するようになった後も、オイリュトミーのいくつものワークが日課練習を支えてくれました。その後、レッスンを開いてからも20数年たっていますが、その積み重ねから、他者との心身ともでの交感によってこそ私たちは自分自身を確かなものにしてゆくことができる、ということを、オイリュトミーは教えてくれたように思います。

〈オイリュトミー〉は、語り手や音楽演奏とのセッションで踊ります。聴こえる響きを身振りに置き換えて楽しみ踊るというスタイルです。

澄み切った水面には音によって波が起きます。そのようにカラダをすると言ってもいいかもしれない。自分の内部を静かにして、カラダをリラックスさせて、全感覚を澄ませて、語りや音楽に、ぴったりと寄り添って体を動かし心をこめて踊りにしてゆく、というのがオイリュトミーの基本の取組み方です。

他者に自らを差し出してゆくダンスとともに学べば、ちょうど鏡のように一対になります。「おのれ」の思いを表して踊るばかりでなく、もう一方に、「だれか」の思いを受け容れようとして踊る、ということもあるのではと思わせてくれたのが、僕にとってはオイリュトミーでした。

〈オイリュトミー:EU-RYTHMIE〉というのは、良い律動という意味の造語ですが、そこには深い意味が込められています。

これを創案したルドルフ・シュタイナーの基本的な考え方というのは、僕ら一人一人が自分の人生の中で直面する現実と向き合い試行錯誤して克服してゆくことが、実は、大きな社会的な動きの種となっていて、それはさらに人類全体が成長していくプロセスにも通じている、というものです。

これは、一人の人間の行いが、必然的に全人類の行いに関係してゆくという、いわば社会というのは受け渡しのリズム芸術なのではないか、という解釈でもありましょう。

シュタイナーの考えから始まった思想は「アントロポゾフィー」と呼ばれていますが、アントロポスは人、ソフィーは智慧、ゆえに「人智学」と訳されています。人が人として人の智慧を学ぶ。そんな感じかしら。

レッスン再開初日となった6/10は、このシュタイナーの著作の言葉を聴きながら地を踏んでいく稽古を、まずやってみました。声を聴き、そのバイブレーションやリズムを感じながら、カラダをあたためていく。

眼で読むのではなく、人が読む声を聴いて文章を知ること。さらに、その声を、身体のリアクションで、しっかり受けとめてゆくこと。これは、やってみれば、言葉のとらえ方にも大きな影響があるのがわかります。お父さんやお母さんが子どもに本を読み聴かせることで、子どもが力を得てゆくのにも、似ています。

この日、選んだテキストは『社会の未来』の一部でした。これはスピーチの記録なので、もとより声のものです。そして、内容的には、危機の状況のなかから、社会の未来をいかに構築してゆくべきか、また、そのために、人間自身がどのように自分を成長させてゆくべきなのか、ということについて真剣に考えた軌跡がギュッとつまったもので、かなり迫力があり、また考えさせられもします。

同著は1919年の講演録だから、ちょうどスペイン風邪のパンデミック(1918~1920)と時期が重なります。第一次大戦後すぐでもあります。僕らも紛争や震災をへてコロナパンデミックの渦中にいます。

後にシュタイナー教育として世界に広がる「自由ヴァルドルフ学校」の設立も1919年です。こないだ舞踏クラスで踊った『ダダ宣言1918』(トリスタン・ツァラ)もおなじ時期ですが、このころの出来事や人々の考えたことには、僕ら現代の人間にも共通する問題がすごくいっぱい、あります。

スペイン風邪から世界恐慌へ、そして全体主義社会の出現へ。という、かつての流れを僕らは知っています。それゆえ不安もあるけれど、歴史を繰り返すかどうかは智慧の問題です。危機的状況をいかに克服するかということから、新しく生まれたものが、とても沢山あることも確かだとすれば、いまこの状況からこそ生まれる希望も、あるのではないでしょうか。

シュタイナーの社会論は、有名なゲゼルの経済論と並んで、たったいま多くの国で議論されているベーシックインカムの源流をつくったとも言われています。(この5/29に可決されたスペインのベーシックインカム導入について書いた日記もこんど掲載します。)踊るということは、自分たちの暮らしを受け止め直してゆくということがないと、本当にはなってゆかないのですが、そのきっかけになればいいなあという気持ちもあって、同著を練習にとりあげてみました。

そして後半では、新しい作品の振付もしはじめました。それは、人と人がコトバを交わす、ということについて、悲喜こもごもを含めて想いを馳せ味わい深めてゆくような舞になればいいなあと、思いながら自粛期間中にあたためていた練習作品です。オイリュトミーは、すべてにわたってセッション性が強いせいもあって、人と人の交流や交感という、いわば表現の根幹にある主題を、プロセスとして明白に体験できるのではないかとも思っています。この機会に、レッスンも初心にかえり、もっとも根源的なところに触れていきたいと思っています。

いまやはり感じているのは、最初に書いたような、全感覚的にコミュニケーションが起きているなかでこそ、踊りは踊りならではのエネルギーを発するということです。

 

※ひきつづき、「コンテンポラリー/舞踏メイン」「創作」「基礎オープン」の順でレッスンを再開していきます。いづれのクラスも新しい仲間を求めています。ぜひご参加ください。

 

---------------------------------------------------

 

lesson 櫻井郁也ダンスクラス 

再開情報6月より全クラス再開!!

・コンテンポラリー/舞踏(メインクラス)

・基礎オープン(からだづくり)

・創作(初歩からの振付創作)

・オイリュトミー(感覚の拡大)

・フリークラス(踊り入門)

 

stage 櫻井郁也/十字舎房:ダンス公演情報

舞台活動は秋の再開実現をめざしており、状況に応じて判断いたします。くわしいご挨拶や前回公演の記録などを、上記サイトにて掲載中です。ぜひ、ご一読ください。