前回の記事を書いた直後に金曜「ダンス/舞踏クラス」と土曜「レギュラー&基礎」の稽古があり、僕の眼には、まさに稽古らしい稽古と思えた。
体の動きという以上に、ひとりひとりの心のうごきが、ぐっと迫ってくるような空気感だった。踊りは空間との対話、踊りは自己との対話、踊りは時間との対話。無数の対話との連続が、踊りの身体を育ててゆく。あらためて思わされるような空気感でもあった。
がらんとした稽古場に数名があつまり、掃除をしたり少し話したりして、稽古が始まる。
はげしく動く人もあれば、じっと動かない人もある。それはいつも通りだ。しかし、ひとりひとりが、それぞれ自分を、自分と他との関わりを、探り問うているのが、見てわかるのだった。
よく見ていると、ひとりひとりの身体のまわりで空気が微細に動いて空間全体に影響している。それによって、空間が明るくなったり暗くなったり、している。人の感情が空間や空気や時間に作用するのが、感覚される。言葉にならないものが、そこには確かにあるのだと思う。言葉以前のもの、言葉を超えるもの、そのような、僕自身では公演の作品に託してきたような雰囲気や感覚を、クラスの稽古のなかで、あらためて感じる。
ところで、、、。
音楽をきいたり、人の言葉をきいたり、というなかで、私はいま何を感じ何を思っているのだろうということを鮮明にとらえてゆく作業が、実はダンスの稽古のいちばん有意義な側面なのだと僕は考えてきた。カラダがよく動く、とびぬけたイメージがでてくる、、、。そんなのは、自慢につながるだけではないか。そこに囚われてしまうと、ダンスの魅力は半減する。動きたければ思い切り動き、動きたくなければそうすればいいのが身体。あるがままにしないと心の動きが身体にうつらない。
なにかと寄り添ってゆくこと。なにかと関わってゆくこと。なにかと共に、なにかを生み出してゆくこと。それらの苦楽が肉体を揺さぶってダンスになるのだと思う。それらは簡単にカタチになるものではないが、とても確かなエネルギーを体内に育てる。ダンスとは何かとともにあることから始まるものだ。
意外と思われるかもしれないが、踊りには人を冷静にする要素があると思う。(長くなるので詳しくは機を見て書くが)踊りには我を忘れさせるような一体感をもたらす集団舞踊もあるが、その正反対に、見つめる側には、これは何なのかと考えさせられたり感性を拡大されたり、踊る側には、いま私は本当は何をしたくて何を考えているのかということを解き明かすようなハタラキが、踊りにはある。いま感じていること、いまイメージしていること、考え、感情のうごき、意思のありかた、それらを意識化し伝達してゆく。踊るというのは、そういう作業でもある。ただ無意識に体を動かすのとちがっている。自分を見つめ直したり社会の状況を見つめ直したりするきっかけを、踊りがもたらすことが多々ある。それは、陶酔とは別の、覚醒、という側面だ。踊りは陶酔と覚醒の両サイドに人の心を振ってゆく。振り、ゆさぶり、かたまってしまいそうなアタマやカラダやココロやカンケイを柔らかくほぐしてゆく。
▶︎まもなく、春の募集をご案内します。
▶︎ただいま、講師がマスク着用のまま稽古進行をさせていただいたり、設備消毒をする場合がありますが、ご理解をお願いします。また、稽古場設置の消毒薬の使用や、手洗いを心がけてください。
▶︎次回公演は10/3〜4です