アンナ・カリーナ。
『気狂いピエロ』を何回も観たのは彼女の眼差しのせいだった。
質問者の眼差しだった。言葉をしっかりたずさえた眼差しだった。あんたは誰?あんたは何者?と問う眼差しだった。ぼさっと映画を観ていたのに、どきっとした。
あの眼差しが映し出される一瞬をもう一度だけ見たくて、有楽町に何回も行った。覚えている。美しい瞳、というよりも、美しい眼差し、と言いたい。
瞳の美しい人はたくさんいるけれど、眼差しが美しい人は、そんなにいない。眼差しが美しい人というのは、その眼の瞳の奥に、何かとてもしっかりした芯があるのだと思う。
ゴダールの映画を好きになる理由はいくらでもあるが、その最大の魅力の一つが出演者。そして彼女や彼のまとう雰囲気だった。モンタージュのことについて語られることが多いが、うつされている人物がいつも特徴的で、僕にはいつもいつも魅力的に思えた。
存在の仕方が、魅力につながる。ゴダールの映画に出てくる人物は、存在の仕方がクッキリとした主体があって、悩んでいる様子にさえどこか明るさがあった。その代表とも言える人がアンナ・カリーナだった。彼女の連れがゴダールになったのも、えらく似合っていて格好が良かった。
ゴダールの初期作品の中心には、いつも彼女がいた。彼女はゴダールのスクリーンの向こうから、こちらをちらちらと見ていた。あんたは誰?あんたは何者?、、、。
見つめられる瞳と見つめてくる瞳がある、とすれば、彼女の瞳は後者だったと思う。見つめられる身体と見つめてくる身体がある、とすれば、彼女の身体もまた後者だったと思う。
存在の仕方が、魅力につながる。さっきもそう書いたけれど、そう思わせてくれた一人が、アンナ・カリーナだった。
亡くなったことを知った。
永遠、という、あまりにも平凡な言葉を、なぜか思っている。たまに太陽を見て思う言葉だ。