11月に上演する新作の振付がかなり進んできた。
この稽古をしつつ、いまときどき見つめてしまうのは、フリーダ・カーロの肖像だ。
作品のみならず、伝えられるその生き方に強い畏敬を感じる。
凄惨な列車事故のために身にも心にも深い傷を負い、そこから立ち上がるように絵を描きつづけた。革命家と恋をした。革命家の思想を超えていった。
僕はその絵を目の当たりにしながら社会を革命することとはまた別の新しい革命、個の内部の革命を促されるような、激しさを浴びた。叫びを飲み込んだような気持になった。じっさい、フリーダ・カーロの、悲しみが革命そのものになってゆくようなその存在の仕方は凄い。
彼女の絵は命を削ってかかれた絵だと、思った、思い続けている。抗い闘うことと創作することと生きること愛することが全て結びついて何かを生み出す方へむかっている。美しさの奥の奥には命がけの闘いがあるのだと、そう感じる。みとれる。みとれながらめざめる。
陶酔を生む美もあるが、目覚めを呼ぶ美もあるのだと、気付いた。痛みや悲しさや苦しさが無意味なものでないことを教えてくれた。
絶望さえもが芸術を通過することで希望に新しくつながってゆくのではないかと、彼女の絵からいま思う。
大なり小なり僕らは痛みを抱えて生きている。決して言葉にしない痛みがあると僕はおもう。そんなもの無いという人がいるだろうか。
痛みは生の証拠でもある。苦しみだってそうだ。もとより僕らひとりひとりがひとりの女性の痛みによって生み出された。
私たちは痛みから生まれた。
そのことを認識するとき、僕らには生みの力が宿る。
人は痛みから何かを生み出す。そのような存在が人なるものであることを、彼女の絵は、彼女の存在は、教えてくれているように思う。